普段目にする日常の風景。郊外の画一化された光景や固有名詞を感じさせない建物など、我々が普段目にする風景は、住む土地が異なっても似た部分が多いかもしれない。そのように誰もが「見た事がある」と感じる風景がモチーフとなっている。
その風景を0.3~0.7秒程のシャッタースピードで写真に撮り、日常の中の「一瞬」という時間を切り出す。PCでそれの輪郭を抽出し、キャンバスに写し取っていく。厳密にいうと「一瞬」という時間の輪郭がモチーフである。
生活の中で回りの景色や街並は日々変化していく。一方で我々は、場合によってはそれが変化している事にさえ気付かない。そこに何が在ったのか、そこで何が起こったかさえも忘れていく。
日々の暮らしの中、自分が忘れたものが何かさえ分からない「私」は、せめて忘れたものの輪郭を手元に残したいと思う。 その輪郭の記録がないと、日常の風景の姿さえ語れない。
そこに何が在ったのか、そこで何が起こったか、今の「私」は何を忘れたのか。身体に、感覚に、なんとかそれらを刻み込もうと私は絵の具で何度も輪郭をなぞる。確かに「私」はその場所で、ある事をした。(しかしそれを忘れた。)
「なぞる」という言葉には2つの意味がある。1つは文字や図などの上をたどってその通りにかくこと。もう1つはすでに行われた出来事やテキストをたどって再現すること。時間の輪郭をなぞる行為にはこの2重の意味がある。
内側、外側から繰り返しなぞられた輪郭は、その行為によって形状が次第に歪み、元が何であったか解らなくなる。形状を規定する輪郭が不確かになり、境界としての機能が変質していく過程は忘却のメタファーかもしれない。
輪郭を境界にした内/外の概念が曖昧になり、それが何であったかはっきりわからない不確かな風景は、視ること、語ることが支えた近代理性の不確かさでもある。
これらの作品は、記憶していることから日常を再現するものではなく、「忘れたもの」からの再現である。2つはなぜか、食い違う。
記憶と忘却を巡り、自己と周囲を分節している境界に新しい解釈をもたらしたい。