DAISUKE MAEDA

/blog/2019.08.14

百年の孤独 後編

百年の孤独 後編

「しかし、銀四郎はたしかな足取りで明景の家に近づくと附近をうかがい、入口の垂れ蓆をまくった。家の内部には、肉の匂いがむせ返るようにみちていた。そこには斉田の妻と二人の男児の遺体がそのままの形で残されていたが、前日の検死の折とは異なって斉田の妻の遺体は原型を失っていた。海草のように頭髪のへばりついた頭部と片足の先端だけがころがっているだけで、その附近にわずかな骨と肉片が散らばっていた。区長は銀四郎の言う通り羆が女の体のみを食いあさっていることを知った。」(吉村昭著「羆嵐」より引用)

恐ろしいやつである。そんな恐ろしい羆を相手に、「銀四郎」は9mほどの距離まで、時には4mまで近づいて至近距離から射つという。当時の銃の性能の問題もあるのだろう。高速で発射される銃弾は、空気抵抗によって軌道が逸れる。現在のライフル銃のように空気抵抗の影響を極力受けぬよう精密加工するには、当時では不可能なのかもしれない。現に昨日の、40mほどの距離での一斉射撃では仕留める事が出来なかった。

本当に9mの距離まで気付かれず近づく事ができるのか。初弾を外せば次の弾をこめる前に羆の一撃に殺される。かといって、ちょっと銃が扱える程度の討伐隊の人数をこれ以上増やしても、羆に翻弄されるだけだ。「銀四郎」に賭けるしかない。この狂暴な羆を斃さない限り、三毛別村落と六線村の住人は、何年もの間身を削るようにして開拓したこの地を捨てなければならないのだ。

今、ラジコを聴きながらこれを書いているが、野田洋次郎氏が「愛にできることはまだあるかい」と歌っている。断言するが、ない。銃弾にのみ、やれる事がある。愛を口にするあなたの、その言葉の軽さよ。あなたがその言葉を口にするには、あと100年待たなければならない。

集団で動く討伐隊の男たちをうまく陽動に使い、羆の注意がそちらに向いている間に背後を取った「銀四郎」。しかし距離は30mほどで、まだ遠い。羆は山の傾斜をのぼってくる討伐隊の動きを見下ろしている。「銀四郎」は丘陵の淵に沿って一歩一歩、距離を詰めていく。彼と一緒に来た案内役の区長は、30mの距離で足が硬直し、雪の上に腰を落とし動けなくなっている。「銀四郎」は銃をかまえた。凍てつく空気をふるわす凄まじい発砲音。

「区長は、茶色い大きな岩石のようなものが二メートルほどはね上がるのをみた。そして重量感にあふれた音を立てて落下すると、周辺の樹木から雪塊が一斉に落ち、あたりは雪片で白く煙った。区長は眼前の光景が何を意味するのかわからなかったが、やった、やったと胸の中で譫言のように叫んでいた。」

しかし、心臓近くに打ち込んだ初弾だけでは倒せない。血のあふれる口から異様な吠え声を出しながら、立ち上がってくる。素早く第二弾を額に射ち込み、ようやく決着である。

これは100年ほど前の話で、それほど大昔の話ではない。およそ人生1個分の時間である。なのに価値観とか、行動原理が現代とは全く異なっていて、目眩を覚えるくらいである。なんか生まれた土地や世代で、価値観があわないというのもわかる気がする。それはよく言われるようなコミュニケーションの問題とは、どうやら根本的に違うようだ。「愛」と「銃弾」にできる事の違いである。