人はどのあたりまで自分から乖離した自分を、「私」として認める事ができるのだろうか。例えば、アイドルや俳優など、見た目や仕草が評価に重要な影響を与える仕事をしている人はありのままの自分をさらすことはできない。
だから周囲のイメージ通りの「私」を演じるのだろうけれど、確信を持ってこれは私だ、と本人が言える境界は、元の私からどれくらい離れた位置までなのだろう。仮に全身整形とかしているとかなり「私」の境界が揺らぎそうだと想像してみる。自分の好みからかけ離れた服を毎日着せられるというのも自己認識に影響を与えるだろう。もしかしたら身体そのものよりも服装や立ち振る舞いを強制される方が、自己は揺らぐかもしれない。
それに加えて、最近は各種SNSの発言に気をつけないとすぐに大騒ぎになってしまう。公の場で、有名人はほとんど台本のようなセリフしか発言することができないのではないだろうか。パブリックイメージを「演じている私」のセリフである。
そうなると悲鳴をあげるのは「本来の私」である。これがパブリックイメージとギャップがあればある程「本来の私」はより内面へと押し込まれる。パブリックイメージな私、が「本来の私」を抑圧しているのである。抑圧する私/される私と、私が複数存在する。
ところで日本語では「自分に甘い」や「自己嫌悪」といった言い方でも私が複数に分かれている。「私が複数存在する」というのは単なる言い回しの問題ではなく、言葉を使って我々が自己というものを理解する際の理解の仕方の、根幹に触れる部分だそうである。「パブリックイメージの私」は精緻な作りの仮面であって、人は役割の異なる仮面を複数所有しており、場面に合わせて「本来の私」が仮面を選ぶ。我々は「私が複数存在する」という形でしか自己というものを概念化できず、逆に言うとこれ以外の捉え方ができない。この構造こそが「私」である。多くの言語で「私が複数存在する」という概念化の構造は見られるとジョージ•レイコフとマーク•ジョンソンの「肉中の哲学」(計見一雄訳、哲学書房、2004年)が指摘している。もう少し難しい言い方をすれば「内的生活に関するメタファーシステムの一般構造は、一つの『主体』と一つまたはそれ以上の『自己』の間の根本的な区別の上に基礎を置いている」(統合失調症あるいは精神分裂病 計見一雄、講談社、2004年)ということになる。
自分を精緻に演じている人ほど親しい誰かには「本当の自分」を知って欲しくなるだろう。それは外からは見えない容れ物に入って蓋がされてあり、その蓋をあけ、中身を覗いたならば、それを見たならばもう他人の関係ではいられなくなり、互いの中身を覗き合う関係、というのは、その人がヘテロであればそれは夫婦というもののことだろうとは思う。