誰だって前向きな表現というものが見たい。わざわざ時間を裂いてあえて後ろ向きな表現を見たい人などいないだろう。アートに限らず、映画でも音楽でも、どういったジャンルの芸術も、誰も傷つけず、鑑賞した人全てを肯定するような前向きな表現、作品が求められている。今はそういう時代のようだ。
余談だが、90年代後半のマンガや映画は残酷なシーンが多かった。当時ある猟奇殺人を描いたマンガが絵的に残酷すぎて、出版社の役員が印刷機を止め新連載の予定がずれ込んだのは有名な話である。あの頃の過剰に残酷な表現を時代の空気だとするのなら、今はそういったものは直接的に描くことは出来ず、一つ奥の層に埋め込み遠回しに表現しなければならない時代なのだろう。
しかし、世界中を見回せば隠しきれないほどの紛争が前世紀から続いているし、日本でだって様々な事件が日々起こるし、殺人者も実在する。自分でそうはなりたくなくても、どうにもならない巡り合わせや避けようの無い不幸は確かにある。全ての人のありのままを肯定するような「前向きな表現」は、どうしようもない巡り合わせの末に罪科を背負うことになった人達までも、肯定する事が出来るのだろうか。
今から15年程前、海外のある紛争地域から僅かの家財道具だけを持って逃げ出したアーティストが、ギャラリーでその家財道具一式を展示し、住むところも無いので展示期間中その中で寝起きしていたというのを聞いた事がある。それは誰かを楽しませるとか、喜ばせるとかといった「アート」とは完全に異なる、状況が抱え込む「負」と、作品と作者が抱え込む逡巡が持つ「負」が乗算されてかろうじて「正」に転じるような表現であると思う。それは人を傷つけては駄目だとか、戦争は良くないといった説得•説教ではない。そこでは眼前にある「負」が、何とか「正」に転じようとするその事実に、わずかな希望は託され作品という仮象によって提示される。直視する事も勇気がいるであろうその展示は、逆説的にかすかな「希望」の存在の根拠となっている。
しかし、このような種類の作品は、現代の日本で展示可能だろうか。悲しさを正しく受け止めるには感性が必要である。
「全ての人が、ありのままでそこにいていい」という社会を、我々は目指すべきだということは分かっている。しかし、私は未だにその言葉を素直に肯定することが出来ない。