三月の末に、京セラ美術館で行われていた「うたかたと瓦礫(デブリ)」展を観た。少し時間は経ってしまったが、感想を記しておきたい。
この展覧会を企画したのは美術評論家の椹木野衣である。平成という時代の一部分を自らの言説で形作った美術評論家は、現時点からどのように平成を振り返るのか。そこに興味が引かれた人も多かったことだろう。タイトルの「うたかた」は鴨長明の方丈記から、「デブリ」は建築家・磯崎新の「瓦礫(デブリ)の未来」という本からそれぞれ取られているそうだ。
私は一つの時代のメタファーに、瓦礫(デブリ)という語を選択した磯崎新氏の直観に感嘆せずにはいられない。平成年間に山のように積み上げられたデブリは、天災と人災による破壊で作られた瓦礫であった。
平成が幕を開け、その翌年にバブルが崩壊した。平成元年にはソニーがコロンビア・ピクチャーズを、三菱地所がロックフェラーセンターを買収し、12月に日経平均最高値を記録したにも関わらず、その一か月後には株価が急落したのである。当時それまで単線的な発展を続けていたかに見えた日本の経済システムが、実はそれほど実態を伴ったものではなく泡沫の如きものであったと言われても、多くの人が目の前の現実に手持ちのリアリティが追い付かない倒錯した状態であったことだろう。もはや商人国家と成り果てていた日本はその後30年以上を右往左往することになった。
その後、平成7年には阪神大震災が起こる。経済の信仰とシステムが破壊されたバブル崩壊に対して、こちらは数十年戦禍とは無縁であった近代都市一つが、天災によって物理的な瓦礫と化した未曾有の事態であった。
ここで今回の展覧会に出品はされていなかったが、平成という時代がどのような価値観を育み、またそれによってどう形成されていったかを探るイントロダクションとして、建築家の坂茂が阪神大震災時に住居を無くした人たちに提供した「紙のログハウス」という仮設住宅を紹介しておきたい。
これは阪神大震災当時、ボートピープルとして入国していたベトナム難民たちのグループに仮設住宅として提供されたものである。ベトナム人グループ達は、震災という災害時に日本人なら当然カバーされている生活支援から避難所以外に起居しているという理由だけで除外されていた。行く当てのない彼らは公園にテントを張り、仮の住まいとしていた。テントは、太陽が出れば室内は蒸し風呂状態、雨が降れば床は水浸しといった状態で、災害によって増幅された社会的な不条理はマイノリティであるベトナム人たちを直撃していた。勝手にテントを張って公園に住み着くベトナム人達を良く思わない地域住民たちとの摩擦も起きていた。
「そんなテントでその日暮らしをする彼らは、語の本来の意味での難民といって良い。長い内戦の末に命を賭けた脱出行によって日本に辿り着くという生き様は、半世紀前の日本人が体験した満州からの引き揚げにも重なる。しかも、落ち着いたはずの神戸でまた昔と同じような事態に見舞われることとなった。家を失い、遭遇した状況に中でひたすら耐え忍ぶだけのマイノリティの姿を前にして、坂茂はこう自問した。人々に住居を提供し都市をつくってきた建築家がここで役割を果たせないとしたら何なのだろう。」(三宅理一著 限界デザイン TOTO出版)
「紙のログハウス」の概要は以下の通りである。まず、トイレットペーパーの芯が大きくなったような「紙管」を縦に並べて壁として使用する。これは製紙工場で紙を作る際、ロール状にするときの芯として使われており、工業用ということで安価で入手可能な材料である。屋根は布の張力を利用した二重の防水テントが考案され、暑い日はそれを開けて熱気を逃がすことが可能であった。基礎はプラスチックのビールケースの中に砂袋を重りとして入れ住宅が風で吹き飛ばないようにしつつ、地面からの高さを確保し湿気を断つ。
「紙のログハウス」の一番のポイントは、多くの人からの寄付を募り、材料費も最低限に抑えながら、十分な量の住宅を作った点にある。施工も工務店が行うのではなく、ボランティアや住民たち、つまり「みんな」でつくる。紙管、テント、ビールケースはそれぞれ企業から提供してもらい、設計、材料調達、組立のシナリオが組み込まれたデザインとなっていた。
誰かが抱え込んでしまったマイナスを、他のみんなでゼロにする。例えそれが社会的、文化的背景を異にする者であっても。協同と助け合いという考え方は、間違いなく「平成」を貫く重要な価値観であるはずであった。
それは今回の「うたかたと瓦礫(デブリ)」展でいえば「突然、目の前がひらけて」の作品に強く引き継がれている確固たる価値観でもある。
それが平成最後の3~4年で大きく揺らぐことになるとは、今でも信じられない。