一つの制度には寿命がある。今その寿命を迎えつつある一番大きな、かつ重要な制度は「資本主義」かもしれない。資本主義からの脱却は90年代の末期から、恐らくはタイの血塗れのバーツやスカンジナビアの金融危機によって露わとなったその不安定性、暴力性の為に各方面で語られる事となった。1999年に出版された熊倉敬聡氏の「脱芸術/脱資本主義論-来るべき幸福学のために」や2000年出版の河邑厚徳+グループ現代の「エンデの遺言 根源からお金を問うこと」では資本主義の終焉が(20年近く前の時点では仕方のないことではあるが)今から見返すと幾分理想的に語られている。近年では鈴木健氏が「なめらかな社会とその敵」で非常に現実的で洗練された理論を展開している。
様々に語られる資本主義の終焉ではあるが、それでも未だ脱市場的、脱貨幣的な経済というオルタナティブは現れない。
確かに、一定の期間以上社会を支え動かしてきた制度がその日を境に別の制度に変化することは有り得ない。もしそんな事があれば、我々の慣習や生活、思想がそれについていかないだろう。ならば変化を促す為の小さなスケール、現時点での実践可能な範囲での問題設定、つまり資本主義においての基本単位である「株式会社」は現状とは別のルールで運営可能か、という点に絞って考えてみたい。
2016年現在、通常の「株式会社」では取り零してしまうもの、取り扱えないけれど確かに価値のあるものは増えてきた。現代美術もその一つである。
現代美術はその性質上、不快さやディスコミュニケーティブなものをテーマとして扱う事がある。それらは市場のニーズから導きだされるものではなく、むしろニーズからは決して出てこないものである。マイノリティな何かを、今この場で声を上げなければ霧散してしまう何かを、確かに存在させる為の容物としての役割もその一側面なのである。
対して、株式会社は市場のマジョリティのニーズを商品とする。そこには一般的に政治的主張は見られず、経済合理性に沿って商品は形成される。株式会社は3ヶ月ごとの採算を常に気にし、リスクの有る物は扱わない。
一昔前に比べれば確かに市場のニーズが多様化したと言われ、株式会社はそれに応える為に「多品種少ロット」の商品展開をするようになった。株式会社は「お客様のご希望、ご要望全てにお応えします。」と恥ずかしげも無くのたまう。しかし、現在はニーズが多様化しているだけではない。貨幣価値を巡る認識が多元的になってきているのだ。例えば少し前では考えられなかったクラウドファンディングは、多くの人や社会に必要とされる事業やプロジェクトであれば実現される。日本で有名なのはREADFORだろうか。一人の出資額が小さいため、より多く人の「共感」や「同意」を得る事で資金を集める仕組みである。単純にリターンが大きいから、というのが出資の理由とはならない部分に貨幣を巡る価値の変質が見られる。
株式会社がニーズに応えることが出来るのは、人間の欲求は経済的価値で満たされるという前提を是とする場合に限定される。しかし人が生活するという事は泣いたり、笑ったり、怒ったりの繰り返しでもある。ただ消費し、貨幣により加速する空間が生活の場としてふさわしくないと考える人は多いだろう。そして音楽やアートといった経済的価値とはある程度独立したものとともに毎日を過ごしたいと思う人も増えてきている。
そもそも、企業や株式会社に代表される組織は、「経済合理性」をOSとし、部分を統合する全体をシステムとして捉えることで成立する。その中で「大きな問題」は「小さな問題」に分解され、そこに最小単位の答えが生まれ、それを統合することにより全体の答えが得られるとされた。その中では利益を最大化するために徹底した合理化が図られる。時にその中で働く人の意思や感情が切り捨てられパーツとしてシステムに組み込まれる場面もある。もちろんそういった場面ばかりでは無いにしても、人間的であるとは言いにくい場面も少なからずある。近代という時代を「より速く、より遠くへ、より合理的に」到達する事を目的とする時代だとすれば、それを支える為のシステムが資本主義で有り、「株式会社」がそのシステムを構築するパーツであった。
しかし、「より速く、より遠くへ、より合理的に」行く事は本来目的には成り得ない。金を稼ぐ事が目的には成り得ないのと同様に。近代という時代は本来の意味での「目的」が成立しない時代だったのかもしれない。そして近代は終わった。
経済的利益を出すことが第一の目的とはならない。もちろん会社存続のためには経済的利益は必須ではあるが、それとは別の「目的」が優先されるような、「利益を出す為の」会社という言い方が論理矛盾となるように(それが部分的であったとしても)経済や株式会社運営のルールを書き換えないといけない。
通常の株式会社が取りこぼしてしまう価値を「商品」として取り扱える会社組織ー必然的に経済合理性を第一とせず、それ以外に行動原理を求める事になる、そんな組織を会社と呼ぶ事は出来るだろうか。そこで働く人間の感情までも許容するような、無駄を抱えて継続できる会社組織。「会社」の意味をそこまで拡張できれば経済のルールには変化が見えはじめるだろう。私はそれを、私が経営に参加する大阪•船場の小さなお店で実践したいのである。