DAISUKE MAEDA

/blog/2018.10.20

お前が死体になる前に その3

お前が死体になる前に その3

前回前々回と学生の時から付き合いのある、死体を描く「画家」笹山直規がVOCA展に出品することに対して色々書いてきた。特に前回の批評文は我ながら核心をついているな、と自画自賛である。今回は、今までの文章で、あまり触れる事が出来なかったVOCA展について、それがどういった展覧会であるのか、また我々制作側の人間がVOCA展をどう思っているのか、その辺りに触れてまとめとしたい。

VOCA展とは第一生命がスポンサーになり、40歳以下の有望な作家を美術評論家、学芸員や美術ライターが推薦し、展覧会をする、という、若手作家の登竜門というか、まあ詳しくはリンクを貼っておくのでそちらを参照して頂きたい展覧会である。

おざなりな紹介になってしまった。というのも、後に世界的な活躍をみせる作家を数多く輩出してきた展覧会であるが、その割に実は我々制作者の間ではすこぶる評判が悪いのだ。

理由は(私の考えでは)主に2つある。

1つは、選考の基準、作品のレベルがバラバラであるという事が挙げられる。毎年発行されるVOCA展のカタログには、推薦者の推薦文(推薦理由?)が作品と併せて掲載されるのだが、美術ライターや地方の美術館学芸員などの推薦文、推薦理由がう○こみたいなものが多い。読んでいて馬鹿じゃない?というか美術なめてんな?と思うような推薦文も少なくないのだ。いや本当に。特にこの作家を推薦しないといけない、世間に広く知らしめたい、という使命感と必然性が弱く、お前本当に必死になって推薦すべき作家を探したのかよ、と制作者側は少なからず思っている。もちろん、いい意味でこちらが思いもよらなかったすごい視点で作家を推薦している人もいるが、そういう人は著名な美術評論家であったり、世情に疎い私でも知っているような研究者、学芸員であったりする。また、(これは偏見だと言われれば認めるし、謝罪もするが)推薦者は中高年の男性であることが多く、それ故古い価値観で絵画を語ったり、下心丸出しで若い女性作家を推薦してたりして我々制作者側をさらにイライラさせるのだ。

2つめは、これは難しい問題かもしれない。VOCA展における作品の評価基準が、概ねモダニズム的な絵画論で貫かれていることである。これはVOCA展の選考委員の中心人物である「高階秀爾(大原美術館館長)、酒井忠康(世田谷美術館館長)、建畠晢(京都市立芸術大学学長)、本江邦夫(多摩美術大学教授)の4氏の批評的立場が、絵画の本質を絵画によって追求するモダニズム絵画論に依拠していること」(現代美術用語辞典Ver.2.0−福住廉 より引用)が理由で、全体的にその傾向が強く出ているように思われる。余談だが、この福住氏の「絵画の本質を絵画によって追求するモダニズム絵画論」という表現は本質を突いていると思う。それはどう考えてもトートロジーな自己言及であり、暗にモダニズム的な絵画論の限界を示唆している。

現代の絵画はこのモダニズム的な枠組みには収まりきらないほど多様な展開を見せる。にも関わらず、VOCA展ではこの枠組みから外れた絵画を制作する作家は評価を受けにくい。その辺りも制作者側のフラストレーションが溜まる理由の一つであろう。平たく言えば保守的なのかもしれない。

「モダニズム的な絵画論」は概ねその歴史的役割を終えたようにも思われる。趣旨がずれるので、その辺りの議論、検証には詳細に踏み込まないが、恐らくこの意見はマイノリティなものでは無いはずである。

では、笹山直規の作品はどうであろうか。どうであろうかも何も、思いっきり「モダニズム的な絵画論」の枠組みからは外れる。というかオーソドックスなモダニズム的な絵画を会田誠氏は評価しない(前回参照)だろう。VOCA展は概ねオーソドックスな(モダニズム的な)絵画感で評価されるが、推薦者を毎年入れ替えるだけあって、その枠組みから外れた作品も散見される。

前回も書いた通り、笹山の作品は中身が無く、歴史的な視点も皆無である。その時点でモダニズムとはほど遠い。しかし、それらの変わりに、今、ここ、でしか得る事の出来ないドメスティックな時代の体温=生を逆説的に浮かび上がらせており、それは意図せずゼロ年代の倦怠感のある膿んだ時代性を上手く切り取っていた。その意味で、ゼロ年代独特のリアリティがあった。しかし現在は2018年である。それらの言説が未だ有用なのか、それとも推薦者である成相氏は全く別の文脈で批評を展開するのか。

笹山は「あなたの大事な人がこんな絵のような死体にならないように、保険は第一生命!ってだめかな?」とか言っていたが、勿論だめである。てかお前何年か前までVOCA展の推薦を受ける事は作家として死刑宣告に等しい!って言うてたやんけ。

それくらいVOCA展は、絵画における様々な矛盾を内包し、なぜかその矛盾の隙間から世界的作家を輩出する、という、制作側にとって何とも捉えがたい展覧会なのである。