この数年なんとなくだが、空気が変わった。時代の、と言えば幾分大げさだが、何かそういった世の中全体を覆うものが変わった気がする。
それは美術やアートと呼ばれるカテゴリの内側で考えてもそうで、一昔、二昔前には確かにあった「これはどの辺がアートなのか?」と思わず首をかしげるような、領域越境的な作品を見る頻度が、急激に減った。代わりに、随分ストレートな、分かり易い、どこか既視感のある作品を見る機会が増えた。つまり保守的な作品、ということだ。
例えば、10〜15年程前の絵画は、「かわいい」でくくられる作品がとても多かった。それらは2000年前後に台頭した村上隆、奈良美智らを代表とする一連の「かわいい」作品の影響を受けている事は明白だった。
しかし、それら多数の、玉石混合の「かわいい」作品群の周囲には、常に「これはアートなのだろうか?」という否定的な疑問符が付いて回っており、それらの疑問符は批判の反面、「アート」の領域が拡張されている、という事実を示唆していた。「アート」そのもののアイディンティが自問自答され、意味がアップデートされる瞬間にのみ、そのような疑問符は起ち現れる。
ちょうど10年前の日本では、それまでの欧米を規範とした「現代アート」の枠組みから、日本独自の「かわいい」路線のアートへの転換の方向性が色濃く映し出されつつあった。中でも象徴的なのは2009年に上野の森美術館での「ネオテニー•ジャパン 高橋コレクション」展であった。
その展覧会は、私の眼には、「ネオテニー=未成熟な」という欧米では否定的に捉えられる部分をあえて戦略的に前面に押し出し、世界に向けて発信する事で、欧米のアートの文脈に日本独自の立ち位置を確保しようという動きに見えた。それは浮世絵でもなく、オリエンタルでもない、日本が自らのアイデンティティを自らの身振り手振りで発信する、恐らく初めての事態であった。そして諸外国は概ね、この発信を好意的に受け取ったように思われた。
ちなみに、「かわいい論」(ちくま新書、2006年)の中で著者の四方田犬彦氏は、英語で「かわいい」にあたる単語は「cute」や「pretty」であり、それらの語源を遡れば、それぞれ「叡智や機知に長けて抜け目がない」といった意味のラテン語「acutus」や、「ずるい」といった意味の古代英語「praettig」になると述べている。厳密に言うと日本語の「かわいい」とは若干意味の背景、射程が異なるようだ。また英語に限らず「かわいい」に対応する概念、単語は他の国にもなかなか見当たらないらしい。
この頃、私は国立国際美術館の「エッセンシャル・ペインティング」と題された展覧会で「美少女戦士セーラームーン」の主人公が大きく描かれたタブローを見た。作者はヨーロッパ圏の人間だった。何か自分の中のイメージとは捉え方の異なるセーラームーンだな、と違和感を感じたが、それは「ネオテニー」との差異だったのかもしれない。
この「かわいい」を前面に押し出した作品群を、あまり見かけなくなったのはいつ頃からだろう。記憶を辿ってみると、第51回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2005年)の日本代表に石内都氏が決定した際、日本は「かわいい」だけじゃない、といった旨の主張を読んだような記憶があり、もしかしたら「かわいい」路線は一方で「ネオテニー」として、一部からは嫌悪されていたのかもしれない。2005年ごろは「かわいい」全盛で、ヴェネティア・ビエンナーレでももっと押せばいいのに、と当時の私は無邪気に思っていた。
前述の「かわいい論」の中で四方田氏が、「かわいい」を一番毛嫌いしているのは上野千鶴子であろう、といっていたが、そう言えば第51回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館コミッショナー、笠原美智子氏もフェミニストだった。
当時の一連の「かわいい」作品群は、確かに未成熟で、幼く、庇護を求めるような弱々しさがあり、それ故一部から反感を買うのは、今となっては理解できる。何よりも男性的な視点で未成熟さを肯定しているようにも見え、それを嫌う人たちは、このようなものが日本の代表的な文化であっていいはずがない、日本にはもっと文化として、立派に海外に発信できるものがある、と言いたかったのかもしれない。
しかし、少なくとも美術に限って言えば、当時の「かわいい」には、それまで我々が目を瞑って見てこなかった、もう一方にある我々自身の文化的に「未成熟」な情けなさを直視させる強さがあった。しかし、それを(当時の)日本文化の現状である、と提示して見せた村上隆氏の実績に対しての国内の評価は、あまりに過少評価である。日本は自身の「未成熟さ」を見せつけられても、そうであるが故に認めることも向き合う事も未だできない。
この数年、「かわいい」という言葉を以前程の頻度で聞かなくなった。以前、建築の分野でも妹島和代や石上純也など、名だたる建築家が建築の検討、講評の際に「かわいい」という言葉を使っている、と知ったときには、従来の芸術分野にそぐわないこの美学が、システムを内側から食い破るのではないか、と真剣に考えたが、それは恐らく私だけではない。
現在、絵画は保守的な作品が以前よりも多く見受けられる。(あえて具体例はあげないが)とても作者が20代とは思えないような古風な作品が注目を集めることも多い。
さて、保守的である事と、安易なナショナリズムが結びつきやすいという事は例をあげるまでもないが、明治や大正を思わせるような「日本的」な作品もまた増えている。2020年には東京オリンピックも控えているが、おそらく、この安易な「日本的」な文化もまた、海外に向け発信されるのだろう。それは「かわいい」を拒否した一部の人たちがもてはやす、立派で伝統ある「日本的」な文化かもしれない。しかし、理想的な人間像が生み出す理想的な文化観というものは、矛盾を突きつけられ、終わったはずのモダニズム的な価値観の残滓であろう。それはどこか演技がかった虚しさと、時代錯誤の付きまとうものでもある。なぜ今、古い時代を焼き直すのだろう。
どちらにしろ、かつて「かわいい」と呼ばれた美学が持っていた一つの可能性が、芽を出した途端に潰えたのだ。それはアートの内側に限って言えば、批評の機能不全が原因であったかもしれないし、我々の現状の文化と向き合えない、無知蒙昧さが原因だったかも知れない。
恐らく、明治以降これまでの各時代の文化的な変わり目で、堕胎してしまった可能性は「かわいい」だけでは無いのだろう。ただ、我々はそれらをすっかり忘れて、コメディのように繰り返しているだけである。