前回、前々回と、私の身の回りで起こった出来事を標準語と大阪弁の両方で記述してみた。私としてはどちらのバージョンも真実に思え、しかしどちらも何かを捉え損ねている、と思うのだが、こうして比較してみると二つの話は意味合いや登場人物の関係性が全然異なる。
前から気になってはいたが、大阪弁は真面目な話をするのに向いていないような気がする。その独特のテンポ、間が、ボケとツッコミを前提にしていて、どうにも真面目な話が出来ない。
対して、標準語のテンポは笑い話には向いておらず、どう作っても真面目な雰囲気になる。
同じストーリーでも大阪弁で語るのと、標準語で語るのでは、キャラクター造形や話全体、行間の意味合いが変わってしまう。
日本語の中でもこれだけニュアンスが異なるのだから、日本語と外国語の間にはさぞ訳しにくいニュアンス、概念があるのだろう。言語とは、当然その言語圏の生活と密接に関係し、それらを価値観ごと詳細に映し出す鏡である。
以前、ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」を読んだ時のことである。この作品は、猥雑で退廃的な近未来(1984年当時から見て、であるが)的な世界観の中、主人公たちが、マトリックスと呼ばれる電脳空間で最も危険なコンピュータ複合体をハックする、というアンダーグランドなあれこれを描いた物語なのだが、この中にディクシー・フラットラインなるハッカーが登場する。彼が「フラットライン」と渾名される理由は、かつて電脳空間に没入(ジャック・イン)した際、脳波が水平(フラットライン)になった、つまり脳死したように見えたけど生きて帰ってきた、という中々かっこいいものである。しかし、このかっこいいフラットライン氏、西部出身で訛りがある、という設定のせいで、訳者である黒丸尚に「おら」という一人称を充てがわれているのである。しかも「フラットライン」の渾名の理由を説明される場面で、あろうことか「おら、おっ死んだ。」というセリフを吐かされているのである。凄腕のハッカーであるフラットライン氏はそんなセリフ死んでも言わない。そんなセリフを言うのは日本昔話に出てくるクワを担いだ農民の「ふらっとらいんどん」である。
また、退廃した世界観の中、主人公のケイス含め麻薬中毒者が複数出てくるのだが、私としてはケイスがトリップする場面は、映画トレインスポッティングに出てくる若かりし日のユアン・マクレガーの、ヘロインで恍惚の表情を浮かべる場面で再生したいのだが、黒丸尚の湿気た奇妙な文体のせいで、それは「仁義なき闘い」の、四畳半の畳の上でステテコに腹巻きのチンピラがヒロポンを打ち、「あ゛あ゛ァーーー!!」と叫んでいる場面になってしまう。
かように、言語は意味やイメージ、生活習慣と深く結びつき、深層から我々の行動を規定する。
私は生まれてからずっと大阪弁で話しているので、もう真面目に物を考えることができないのではないかと思う。ネイティブな大阪弁の私はもはや身の回りで起こった出来事さえ、笑い話調でしか書き起こせない。
アート、もしくは美術は言語と密接な関係がある。しかしアートも美術も元はと言えばヨーロッパからの訳語、輸入の概念である。一人称が「おら」と訳されてない保証はない。しかも私は、大阪弁でしか世界を記述できないが、世界を記述するには大阪弁では不十分なのだ。そうだとすれば、私の「美術」に出来ることは、アメリカ、ヨーロッパの「Art」の文脈で作品を組み立てるのではなく、「今、ここ」のドメスティックな時代の体温を切り取ること以外に無いのかもしれない。