自らの身体を掴もうとし、前に手を伸ばしてもそこには何もない。当然だ。伸ばせば伸ばす程、その手は自らの身体から遠ざかる。しかし、その手は前にしか伸ばす事は出来ず、また掴みたいはずの自らの身体も、なぜか伸ばした手の先にあるとしか思えない。過去の「思い出」と向き合うとき、そのようなある種の不自由さの感覚が付いて回る。それは確かにそこに有ったはずなのに、手を伸ばせば再び触れる事ができるはずなのに、という幻肢痛にも似た感覚だ。
人の記憶というものは想像力によって多分に干渉を受け、時間が経つごとに変形される。我々は「時間」の中で日々生活を送り、全ての出来事は繋がった時間の中でしか経験されないため、その中から一つの記憶だけを取り出し、それを客観的な事実として認識することは基本的に不可能だ。記憶とはその前後の感情や状況とも不可分なものであるため、それらの条件が変化すれば同じ出来事を経験した複数人の記憶の手触りはそれぞれ異なったものになるはずである。
そんな人の記憶に対し、カメラは基本的に目の前にあるものしか記録し得ない。カメラは、連続した時間の中からシャッターを押したその時だけを取り出す事ができる。写真が「思い出」の表象として機能するのは、それが前提として共有されているからだ。人は何かを残したいとき、その対象にカメラを向け、シャッターを切り「思い出」を時間と共に定着させる。それは家族の記念日に撮影したものかもしれないし、旅行先での風景かもしれない。日常の何気ない瞬間だったかもしれない。
小川美陽の作品は、フリーマーケットや蚤の市などで見つけられた撮影者が誰であるのか分からないファウンド・フォトと呼ばれるネガフィルムを素材に構成される。蚤の市で売られていた古いカメラの中には、撮影済みのネガフィルムが残されていることもあるそうで、それらのファウンド・フォトが小川の手元に収まるのは全くの偶然によってである。しかし、小川はそのネガフィルムを現像し、写真として我々の目の前に提示することはない。代わりに、そのネガフィルムに何が写っているかを記述し、小川自身の肉声が読み上げその内容からAIがイメージを生成する。持ち主のいなくなった「思い出」は前後のコンテクストから完全に切り離されているため、その内容からはどういった場面を撮影したものであるか想像するのは難しい。加えて、我々が目にするのは、ネガフィルムに残されたイメージを小川が読み解き、そのテキストをAIがイメージに再変換したものである。そのイメージはどこかで見たことがある気がする景色だが、実際は「時間」そのものから切り離された、どこにもない非実在の、あるいは空想の景色である。
「思い出」とは常に、誰かのものである。それは逆に言うのなら、誰も思い入れを持たない風景は、誰の「思い出」にもなり得ないということだ。ファウンド・フォトのように、主を失った思い出は「思い出」と呼べるのか。写真が「思い出」の表象であるのなら、その主を失った「思い出」とは何か。それは直接的ではない形で「写真が撮ることのできないものとは何か」を問う事かもしれない。思い出を巡る写真とは、常に撮影者の「感情」がコーティングされていたり、その場に思い入れのある他人の「執着」の蓄積が写し出されている。我々は写真そのものよりもその感情や執着に同調し、写っている「思い出」に共感することが多い。しかし、その写真は撮影者が誰か分からず、写されているものの状況や物語も分からない。意味や価値が一旦括弧に入れられたオブジェクトとしての「思い出」は思い出ではなく、まるで標本のようだ。
撮影者の感情や意図を含まない写真であれば、自動撮影のような方法で撮ることが可能だ。しかし、その様な写真ではそもそも最初から「思い出であったこと」を示しようがない。ファウンド・フォトのように出自を喪失した写真だからこそ、かつて持っていたもの、しかしどこかの時点でそれを喪失してしまったその痕跡を我々は感じ取るのだ。その時、その場に無かったもの。喪失の痕跡をカメラは撮れない。事後的に撮影者や物語を失うことでしか、その痕跡は生まれないからだ。
小川が偶然手にした古いフィルムに写された内容をテキストにし自らの肉声で読み上げることは、そうした痕跡に自らの身体を這わせ、なぞる行為のように思える。「感情」を読み解こうとし、そこにある「執着」を拾い上げる。しかし、発見者である小川と、撮影者、被写体のあいだには、その写真の「読み方」を巡り必然的な相違が生まれる。その相違があるからこそ、撮影者や被写体がどんな人物なのか、その景色はどこなのか、という問いにどれだけ漸近しようとも結局答えは出ない。フィルムの内容を小川が解釈しそれを記したテキストは便箋の形にしたためられてはいるが、その相違を反映するかのように誰に宛てたものか、宛先は不明である。
AIの生成したイメージは、本当にこれが誰かの「思い出」を元に作られているのかと疑問を持つほどこちらの感情を刺激しない。しかし、AIのイメージの元になったネガフィルムは半透明のトレーシングペーパーに包まれ、過去「そこに確かにあった」ことを示すように、棺を思わせる真ん中の窪んだ四角い石膏の台に置かれている。その四角い石膏の台は、誰かの「感情」や「執着」の墓である。写真に蓄積された時間と共に、そこにいたであろう他者が葬られている。
生成されたAIのイメージは、何が写っているか判別はつくものの、パースやスケール感はどこか曖昧になっている。それらは物語や意味が剥奪され、普段我々が容易に見分けがつくように慣習的にそう呼ぶものとはまるで別の物のようである。名称を奪われる寸前にある物体が写った景色。それを眺めることは夢の中、最も曖昧なもののあわいに立ち入っていくことのようだ。そしてそのあわいは、長い時間、忘却が堆積した中に埋もれていた誰かの「思い出」の、主を無くし宙を舞っていた「思い出」の変形した姿でもある。
「思い出」がかつて持っていた感情や執着は埋葬され弔われた。その周りを覆っていた堆積した忘却は小川の肉声により丁寧に取り除かれた。そうして今、ここに現れた新たなイメージは「私」の中の思い出を代理表象出来そうなほど中庸な佇まいである。だからこそ、我々は目の前にあるその喪失の痕跡に自らの「思い出」を重ね、無いはず喪失の痛みを感じるのである。この時、誰かの過去と自らの現在は重なり、微かな繋がりは示される。「思い出」だったものと向き合う時、痛みは確かにそこにあるのだが、自らが何かを失ったわけではない。それはまるで幻肢痛のようでもあり、ある種の錯覚や思い込みのようでもある。
記憶とは曖昧なものである。幻覚や幻聴、睡眠時の夢や妄想のような実態の無いものまでも体験として記憶に留める。他人と共有しようがないそれらの記憶は、現実に存在していると言えるのだろうか。観念と大差がないように思える記憶を巡るそれらはリアルであると言い切ることが出来るのだろうか。もしそれができるのならば、あわいの中に立ち現れた風景を見たときの、我々の幻肢痛のような痛みは確かにリアリティと呼ぶべきものである。その時、宛先不明のその手紙もきっと正しい相手に届く。届いた後に宛先が明らかとなる、という順逆の狂った方法で。

