DAISUKE MAEDA

/blog/2015.06.13

トーキョーワンダーウォールを観に行こう!中編

トーキョーワンダーウォールを観に行こう!中編

18時に閉館の現美、レセプションは18:15から受付です。ミュージアムショップにいたのですが、閉館の音楽が流れアナウンスでも「18:00閉館です」と重ねられ、同時に慌ただしくレセプション用のマイク、椅子の準備や食べ物が並べられていくのを見ると一度外に出た方がいいのかな?と思い外に出ました。

降っていた雨は小降りになっていたので、今のうちにコンビニへ行っておこうと歩き出した途端に豪雨…びしょびしょで美術館に戻り、中で待っていればよかったと後悔しました。

さて、始まった授賞式では審査員の方々が審査の感想を述べられました。審査員は石原慎太郎氏、大巻伸嗣氏、鴻池朋子氏、杉戸洋氏、丸山直文氏、山村浩二氏、今村有策氏です。多くが美術家として高い評価を得ている方々です。

石原氏「次の時代に、古典足りえるような作品を!」あついですねー。

鴻池氏「小粒な作品が多く、審査していてイライラしました!もっと身体全体を使って、デッサンをするように対象に迫っていく作品を!縮こまらずに目一杯遊んでおかないと表現なんて出来なくなりますよ!」こちらもあつい。ご自身の作品ともリンクしますね。

杉戸洋さんは会田誠さんに似てらっしゃいますね。最初お見かけしたとき、会田さんは髪を切ったのか?と思いました。

パーティでは他の入選者の方とお話することが出来ました。20代の人や大学生の人との会話は視点やバックボーンの違いから参考になる点が多々あります。そんな話の中で、最近20代の人達は大学の先生から表現がどんどん「軽く」なっていると指摘されると言っていました。この文脈の「軽く」には「軽薄」というニュアンスが含まれていたように思います。そういえば「リアル・アノニマス・デザイン」という本の中で川崎和夫さんという方がデザインが軽薄なプロダクトについて言及されていて、そういった表現が増えてきているのが「気がかりだ」と書かれていました。表現が「軽く」なっているのは他ジャンルでも見られる傾向のようです。他にも「カワイイパラダイムデザイン研究」という本では真壁智治氏が、本来緊張感が有るはずの大学の建築の作品講評会で生徒が建築について語る際、「かわいい」という言葉を多用すると書いてました。「作品の説明がかわいいを核にして全体的にコトバが軽くなったのである。」(カワイイパラダイムデザイン研究よりの引用)軽いなぁ。しかし、こちらは前述の川崎氏と違い、それが何を意味するのか客観的に分析した上で研究テーマとしてその変化を有る程度肯定的に捉えていたように思います。興味のある方はご一読を。

IMG_0339

TWW2015の入選作品を観た私の意見は、最近の絵画は表現が「軽薄」なのではなく、どんどん「軽妙」になってきている、というものです。もっと肯定的な評価を与えられて然るべきだと思います。かわいい作品も多かったですよ。(*ちなみに、別に今回審査員の方から「作品が軽い!」という発言があった訳ではありません。文章の順序で分かりづらいかと思い、念のため補足を。)

50代、60代の方々が「だーかーらー!!こういう表現じゃなくてさぁ!!!もっとこう、さぁ!!」というのも分からなくはないですが時代は変わったのです。石原氏の言うような次の時代の「ニュースタンダードな作品」像も、今までのような特定の基準の中で高水準な「大振りな作品」の価値も、すべて近代という時代の残滓であって、およそ「現代」では機能しないものなのではないでしょうか。もはや「歴史」は単線的に一方向には進まないのです。(そんな事を書くと「そもそも公募展に出品すんなよ!」と言われてしまいそうですが…)

もっと言うなら、「現代」の日本に、重々しく取り扱わないといけない問題などあるのでしょうか?例えば内戦をしている国から逃れてきたアーティストが、逃げてきた時に持っていた家財道具一式をギャラリースペースに作品として展示する、とかなら「重さ」もあるのでしょう。(川俣正さんの著作でそういったアーティストが紹介されていました。)前回書いたヴァンディ・ラッタナのような作家なら軽い作品は作れないでしょう。そういった生死に向き合わざるを得ないアーティストに比べ、日常生活であまり生死を感じることのない日本人の言う「重さ」とはなんでしょうか?

美術が体系的である時代はとうに過ぎ、言語による思考では捉えきれない対象は増大しました。大体において、時代のターニングポイントは、無言で我々の真横を通り過ぎているのです。誰かがそれに気付いた時にはもう、「価値」や「意味」はそれまでとがらりと姿を変えているものなのだなと思ったTWWでした。