さまざまな作品が並ぶTWW2015入選作品展ですが、当然それぞれの作者の在籍・出身大学も異なります。各美術系の大学にはそれぞれの特色が有り、それぞれの出身者の作品にもそれは反映されているように感じます。大きく分ければ関東と関西でも色が違います。関東の方が少しコンセプチャルな要素が多いような気はしますし、京都や金沢だと伝統工芸がさかんですので素材や技法からの問題意識を感じる作品が多いと思います。
とりわけ伝統を重んじる金沢や京都にある美術系大学では、前回のブログで書いたような「軽い」表現に対しては教授陣から無言のプレッシャーがある、と聞くことが多々あります。マジか…日本画科とか特に教授めんどくさそうやな。そういえば東村アキコさんの自伝マンガ「かくかくしかじか」では金沢美大の油画の作品講評会の教授陣の怖さが描かれていました。
さて、私の出身校、大阪芸大ではそのあたりどうだったでしょうか。基本、大芸の美術学科はあまり絵を描きません。美術学科なのに漫画を描く人、バンドをする人、演劇をする人。先生なのにゴルフの練習をする人、生徒とキャッチボールをして遊ぶ人。制作においては基本、高いハードルは飛べる高さにまで下げてから飛ぶ、逃げられるうちは逃げ回る、というのが基本スタンスです。まぁこちらは島本和彦さんの「アオイホノオ」そのままです。いや、でした。10年前までは。今はもっとちゃんとしているはずです。ちなみに美術学科の同期で有名人といえば、ザ50回転ズでしょうか。涙のスターダスト・トレインを聞いたときは泣きそうでした。
そんな環境で絵を描いていたので、「教授陣からの無言のプレッシャー」も「講評会の厳しい評価」もあまり想像ができません。
先生が生徒の描く絵の良し悪しを評価する―評価する側/される側の関係は常に非対称です。「評価」というものは常に非対称な形でしか成り立たないので、そのこと自体は別に問題ではないと思います。しかし、一方で評価する側は何を以ってその評価基準の正当性を担保しているのでしょうか。なぜ自らの判断、価値の評価の無謬を確信できるのか。
私は「表現」というものは例えば、3年間敷きっぱなしにしたフトン、3年の間には汗や湿気を吸いまくったであろうフトンを久々に片づけたら床とフトンに間にキノコが生えていて、その「キノコ」のように自然発生的なもの、土着的などうしようもない「何か」をそう呼ぶのだと思っています。それを「人間の業」とか「複雑化した現代社会」とかいう風に大げさに換言して、クリアなコンセプトを作り上げるところから日本の「現代美術」、もしくは「アート」の滑稽さは始まるのです。
その「キノコ」を初見の時点で「これは素晴らしいキノコだよ!」とか「全く無価値だね」とかいうことは誰にもできません。ある程度時間をかけて、調理法や利用法を探った上でようやく価値が定立するからです。食用にはならなくても、薬用にはなるかもしれない。猛毒かもしれない。これから一気に拡がっていくかもしれない。それと同じように表現においても「それがどれだけの価値なのか」ということは(その価値が大きければ大きいほど)同時代の人間にはきっと理解できず、ずいぶん後になって事態を俯瞰できるようになった時初めて可逆的な形でその価値に気付けるのではないのでしょうか。それはちょうど15年前、村上隆さんがあまりに鮮やかに2000年以前/以後を切り分けた瞬間のように。そして当時もそのことにすら多くの人が気付けず、否定的な意見もずいぶん多かったように記憶しています。
さて、前述の50回転ズですが20代の人に話すと「高校生の頃、めっちゃ聞いていました!!」と言われたりすることもあります。高校生の頃…時の流れは音速なのですね。当時彼らが手売りしていたサイン入りCDを今も持っています。そんな風に、自分の表現もまだ見ぬ誰かに届けばいいなと思っております。
今回、色々と考えさせられた東京滞在でした。TWW2015は今月28日までです!まだの方はぜひ!


