DAISUKE MAEDA

/blog/2019.02.12

冷たい雨はいや

冷たい雨はいや

この三連休は色々と用事があり、京都へ行った。

京都へ行ったついでに、ふと思い立ち、京都市立芸術大学の卒業制作展にも足を伸ばしてみた。どこかの美術系の大学の卒業制作展に行くのは、恐らく14、15年振りで、学生の時でさえ私はほとんど他校の卒制には行ったことがなかった。

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にも関わらず、久々に、久々すぎるが卒制なるものに行こう、と思い立ったのは2つ程理由があって、1つは、今や有名人になりつつある日本画の井上舞さんが、今年で大学院を卒業だと言っていたのを思い出したこと、もう1つは、今の20代の人はどんな作品を描くのだろう、という好奇心が、少し前から私の中に燻っていた事、が挙げられる。20代前半の人の作品を見る機会がほとんど無くなってしまった私は、一度まとめて若い人の作るものを観て、現状の「絵画」を定点観測しておく必要があるなぁ、と最近思っていたのである。

バスに迷いながら、大阪で暮らす私にとっては京都のバスは分かりにくくて、ほんとに迷いながら何とか雨の京都市立芸大に到着した。

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ちなみに京都のバス路線図は、このくらいの大きさだとどうなっているのか分からんくらいの集積度である。旅行者には優しくない。

あまり時間もなかったので、絵画を中心に観てまわったのだが、出展されている作品は、皆とても作品としての完成度が高く、上手かった。

四回生とか大学院生の作品になってくると、油画も日本画もテーマやコンセプトもしっかり練れている物が多く、見応えがあり、その心象が影響するのか、廊下ですれ違う学生の顔つきもみんな大人びて見えたし、お客さんに自分の作品の説明をする話し方もとてもしっかりしていた。私がこのくらいの年頃の時は、いつも半分口を開きながら歩いていて、担当の先生には「お前もうちょいしっかり作品の説明せえや。。。」と言われることも多かったが、その時も、半分口が開いたままだったのでほとんど気にもしなかった。全く違う場所、学校なのに、当時の事をつい思い出してしまう。

とはいえ唯一つ、今回の卒制展で気になった点といえば、それぞれの作品のタイトルだろうか。具体的な言及はあえて避けるが、作品のタイトルがどこかで見聞きしたような物が多く、それは暗に、作る側の「絵画とは、こういうものである」という固定観念を示唆してはいないだろうか。

作品とタイトルは無関係ではいられない。そもそも、無関係であれば作品のタイトルとして成立しない。タイトルがどこかの美術館やギャラリーで見た先行世代の作品と、同じ語彙、文法の範疇でつけられているのであれば、必然、絵画の内容や形式もそれらと相似形をとっている事は多い。それほど絵画と言語は結びつきが強いのだ。

言語によって、自身の中で未分化な私/絵画を分節し、絵画にするべくキャンバスにアウトプットする。それは観念に受肉させる行為だ、と言い換えてもいい。絵画とは、言語とは別の仕方の世界の分節の方法だ、と私は思っている。しかし、前述の固定観念が強ければ、筆の運びや画面の処理、構図、色の選択が無意識に縛られ、見た目の差異だけを同語反復的に作り出しかねない。そうなると制作は早晩行き詰まる。「いや、自分は自分の描きたいものを、あまり誰の影響も受けず描きたいように描いているよ」という人もいるだろうが、それ自体が絵画の一つの定型の作り方だと言う事は、指摘しておきたい。

自分自身の選択が何に依って規定されているのか、それを客観視すること。自分の考えは自分が思う程主体的ではないこと。この2つを早めに知る事が、この行き詰まりを回避する方法である。行き詰まった時、間違っても、量を描いて解決しようとしてはいけない。まず今の行き詰まりが何に由来する物なのか、問題の構造を把握することを勧めたい。

作品を見て回る内にふと、「卒業制作展」だから出展してる人の大半はこの春から社会人になるのだろうか、と思った。就職したりするのだろうか。これだけ高いレベルの作品を作っていても、作品を販売して生計を立てる、というのは難しい事である。ならば就職して、会社の仕事をしながら、もしくはアルバイトをしながら制作を続けるということになるのだろうが、生活との折り合いがつかず、途中で制作を止めてしまう人が多い事も、私は経験的に知っている。

卒展の期間はこの三連休のみだったようで、行ったその日がたまたま最終日だった。こんな日くらい晴れていればいいのにと、冷たい雨が嫌いな私は思った。