DAISUKE MAEDA

/blog/2020.06.14

跡形なのか、その瓦礫は まとめ 編

跡形なのか、その瓦礫は まとめ 編

9月に開催予定だった、ひろしまトリエンナーレが中止となった。公式にはコロナの感染防止を理由としている。この展覧会は実行委員会とは別に、展示内容を選定する「アート委員会」を県が設置する方針を固めており、これに対して作家、芸術関係者から強い批判が上がっていた。実態は検閲しようとしたところ反対され、空中分解したということらしい。

県としては「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」のような騒動を回避したかったのだろう。その気持ちはとても良く分かる。ひろしまトリエンナーレは観光誘致の側面も強かったみたいだし、主催者の責任として、炎上し批判され、収拾のつかなくなる事態は避けたいという事だろう。

そうなると先の「表現の不自由展」の責任は重たい。「表現の不自由展」は主催者側が十分な説明責任を果たしていない、と広島県の職員の方は感じていることが「アート委員会」を設置した事からも推察される。

正直私もそう思う。公共の場で税金を使って展示をした以上、市民から作品の制作意図、展覧会の企画意図について説明を求められれば当然説明をしなければならない。例えば、「平和の少女像」や昭和天皇をモチーフにした作品など、最初から炎上しそうな作品が多々あったし、それらの作品について「なぜそれらの作品を展示するのか」という質問は来場者から出ることは当然予想出来ただろう。しかし、主催者側はその点の準備が、残念ながら不十分だったように思う。

主催者側は「説明する機会すら奪われたのだ」と言うかもしれない。しかし、そこは先回りして何らかの対策が必要だったのでは無いか。暴力や暴言で展覧会を中止させようとする人間まで出てくる中で、先回りして対策を打つ事は容易ではない。だが説明出来なければ展覧会は単なるスキャンダリズム、炎上狙いと言われても仕方が無い状況で、その対策こそが展覧会の生命線である。死守しなければならなかった。

表現とはなにか。世の中には、どうしても表現されなければならない事、発信されなければならない事があり、それらは一見不可解であったり、不愉快な見た目をしていたり、感情を逆撫でするような内容を含んでいることが多分にある。しかし、それは今私が言わなければ、あなたがそれを受け取ってくれなければ全て無かった事になる問題提起である。「表現」とは本来私とあなたの間にあるその構造のことであり、それ故どれだけ不愉快で気持ち悪い見た目をしていても眼を逸らす事は許されない。その中には問題を解く鍵や新たな問題意識が内包されている。学術体系の全ては、社会に今ある問題を解決するために存在し、美術・アートとて例外ではない。

思わず眼を逸らしたくなる不愉快な表現も、「どうしてもあなたに受け取ってもらいたい」という動機があるからこそ、「見たくない」と観賞を拒否する人には丁寧に説明しようという姿勢が必然的に生まれる。ただ鑑賞者を挑発する作品、展覧会にはならないはずである。「表現の不自由展」の実体はどうであったのか、その展覧会を見る事が出来なかった私には分からない。しかし、主催者側が美術としての論理と価値をはっきり説明出来ていない以上、あの展覧会での「表現の自由」はレトリックなのではないか。我々表現を発信する側が、「表現の自由」を軽く扱ってしまったのではないか。

私は制作者側なので、何とか「あいちトリエンナーレ」「表現の不自由展」側を擁護したい。私は「表現の自由」をとても大切に思っている。しかし「表現の自由」に残ったのは今にも崩れそうな外殻だけである。もう一度、表現する者全員で作り直さなければならない。