DAISUKE MAEDA

/blog/2017.12.02

飽和した世界の為のデザイン 後編

飽和した世界の為のデザイン 後編

前編からの続きです。

車を使うと生み出される二酸化炭素や排気ガスなど、それらが問題となり動力がガソリンから電気へとシフトされつつあります。現在でもガソリンと電気のハイブリットや、水素、燃料電池など、様々な動力に対しての試行錯誤が繰り返されています。ハイブリッドで有名なプリウスって今いろんなバリエーションあるんですね。

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ここで一つ注意して考えてみないといけない事は、ガソリンで動く車が、近い将来電気で動くようになったとして、今の社会が抱えている問題はどの程度解決されるのか?という事ではないでしょうか。確かに排気ガスが出なくなれば、温暖化や大気汚染という問題は減るかも知れません。しかし、ガソリンで賄っていた動力を電気にシフトすれば、当然、全体的に電気の需要は高まります。

その状況にあわせて発電所を増やすというのは難しいでしょう。火力発電であれば天然ガスを輸入し、それを燃焼させなければ電気は得られません。海外からの輸送+燃焼時の二酸化炭素や排気ガスが上乗せされるので、「車が排出する二酸化炭素が減る」かもしれませんが、社会全体では見た目程変わらないのではないか、と思ってしまいます。だからと言って原子力発電の量を増やす、という選択肢には反対の人も多いでしょう。3.11の震災以降、電気はもはやお金を出せばいくらでも買える、というものではなくなりました。

それに加え、車で移動が楽になる、という事は反面、歩く機会を失うという事でもあります。人間の身体は、運動する事を前提に設計されているそうですが、歩く機会、走る機会を失うという事は、中年以降は特に肥満に直結します。

現在、日本の国民医療費は、高齢化とも相まって国家予算の半分を占めるようになりました。太平洋戦争に突入する直前の軍事費が、国家予算の半分だったことを考えると、十分な異常事態です。全てとは言いませんが、10代、20代の頃からの運動習慣で社会全体の医療費を抑える事が出来るなら、いっそ軽めの運動を義務化してしまってもいいんじゃないか、と思ってしまいます。

そういえば前から思ってたんですが、車での「通勤」って減らせないもんなんですかね?不思議で仕方なかったのですが、なぜ太った中高年の方ほど、車を通勤手段として使うんですかね。歩けばいいのに。

個人の利便性や快適性を優先し、全体の事は考えずに車を使う、といった旧時代的な、社会の脂肪部分からしか生まれないような感覚はもう捨てなければなりません。そうは言っても、もうそんな奴おらんやろって言われるような古い人が、若い人からは到底理解も想像も出来ない古い考え方が、未だ社会には溢れているのも事実ですが。。。

多くの人が歩いて肥満が減れば、全体の医療費も減るかも知れません。毎日の車の使用頻度が減るので、温暖化ガスの排出量も減ります。

今まで、個人がただ楽をする為に、本来人間が行うべきような事も過剰に機械に代替させていました。その過剰な部分が人間の脂肪となっているのかもしれません。現状社会全体の慣習や制度も、割と脂肪過多な状態です。その辺りのスリムアップを行い、必要なエネルギーを必要な分だけ使うようにする、という制度設計、自然にその方向に意思が向く、ルール設計やガイドとしてのデザインが求められています。

デザインは売れる商品の見た目を作るツールでは決して無いのです。社会倫理と経済の間でバランスする、制度という目に見えない土台をデザインし、作る事が「飽和した世界の為のデザイン」なのかもしれません。

mokei

写真は「地域社会圏モデル」という建築の本の中で提案されている、400人が1単位で暮らす為の住宅の模型です。1つの住宅に1家族が住むというモデルが、現在の硬直した日本の運営システムをつくり、それがいまや大きく破綻していると考える山本理顕氏による問題提起の答えとして、建築家の中村拓志さんが提出されたモデルです。他人と暮らせば境界線の引かれ方、プライバシーの在り方も、家族とのそれとは大きく変わります。新たな公共空間と個人の生活を構想し、そこから社会制度までリーチを延ばして再考しようという試みです。こういう考え方ってすごいなあと本当に思います。(*画像が悪くて申し訳ありません。)

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これを見る限り、「飽和した世界」で求められる自動車のデザインは、もはやガソリンの代替を考えれば済む、という問題ではないようにも思います。