DAISUKE MAEDA

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2015年6月の投稿一覧

雑記

よく本屋さんに行きます。

美術関係の本は大きな本屋さんでないと欲しい物が無い場合が多いので梅田のジュンク堂や紀伊国屋に行く事が多いのですが、一昔前に比べて美術関係の本って減ったように感じます。2008年のリーマンショック以前だと、「Pen」や「Brutus」といった雑誌でも現代アートの特集が組まれ、「現代アート」というものが市民権を得られるかのような雰囲気さえありました。今はNHKの日曜美術館でも現代アート系はあまり放送しない様ですね。大阪では心斎橋のKPOや、天保山のサントリーミュージアムも無くなってしまいました。

現代美術はどれだけ高尚なテーマやコンセプトを掲げても、好況、不況の煽りをもろに受ける分野です。とは言え、(私見ですが)ある程度は経済原理とは切り離して考えないといけないとも思っています。というのは現代美術はその性質上、ディスコミュニケーティブなものや不快なものをテーマの中心に据え組み立てられる事も多いからです。それらはニーズやマーケティングからは決して出てこない形である事が多いです。作家は不可思議な、醜いその作品に、自分が「今、ここ」で発言しないと誰も気付かないであろうこと、消えてしまうであろうメッセージを託します。自分が黙っていても、他の誰かが言ってくれそうなメッセージが作品の中心に居座ってしまうと、つまりニーズを元に作品を作ってしまうと消費の対象にしかならないのです。あくまで「革新的な作品を作る」というスタンスで、期待通りの意外性、予想通りの新奇性を演出した作品を作ることになります。もちろん作家自身がその事に自覚的であり、作品を売りたいと明確に意識しての事であれば問題は無いと思います。むしろマーケットが拡大しそうなので一定数そういう人たちもいて欲しいとさえ思います。要は何を優先させるのか(売上なのか、社会の中での役割なのか)という事になります。この辺りは川俣正さんの「アートレス マイノリティとしての現代美術」(フィルムアート社)や白川昌生さんの「美術、市場、地域通貨をめぐって」(水平社)などが示唆的です。

以前、2011年頃だったでしょうか、大阪駅前が再開発されたときはなぜか周辺の三越伊勢丹や阪急百貨店等が「現代アート」を扱うフロアを設けてオープンし、その後1、2年で撤退、もしくは縮小したように記憶しています。現代アートはどれだけ頑張っても現在の、しかも大阪といったローカルな経済原理には馴染みきらない物だと思います。大阪は他府県と比較しても、「お金」そのものに価値を見出す人が多いように感じます。商人の町だからでしょうか。損得にも厳しい。そんな土地で現代アートを商品として扱おうというのなら、例え口当たりの良い作品ばかりを扱おうとも最初の10年は赤字を垂れ流す覚悟で、13〜15年後くらいにようやく赤字が出なくなり、20年後にわずかに利益が出始める….くらいの覚悟で取り扱って欲しい、というのが美術に関わる者としての率直な意見です。すぐに撤退したり、縮小されたりしたのでは増々現代アートの作品の価値が安定しなくなるからです。無論、そんなことは株式会社では無理だということは理解しています。もし大阪でこれから現代アートをある程度の規模で商品として扱おうという企業が有るとすれば、よほど目を見張る戦略や潤沢な資金、人的リソースがある場合を除いて(それはオープン当時の森美術館に匹敵するくらいの、という意味です。オープン当時の森美術館のスタッフについてはこちらの記事を参照下さい。2003年、まさにオープンする直前の記事です。)すぐに撤退に追い込まれると言わざるを得ないでしょう。逆に言うなら、わずかな資金であっても20年くらいのスパンで手間をかけ地道に取り組めばいつの間にかマーケットが出来ている、と言う事はあり得ると思います。

上でも書きましたが、作家はその作品に自分が「今、ここ」で発言しないと誰も気付かないであろうこと、消えてしまうであろうメッセージを託します。そんなメッセージにこそ、聞く意味があるのではないでしょうか。

トーキョーワンダーウォールを観に行こう!後編

さまざまな作品が並ぶTWW2015入選作品展ですが、当然それぞれの作者の在籍・出身大学も異なります。各美術系の大学にはそれぞれの特色が有り、それぞれの出身者の作品にもそれは反映されているように感じます。大きく分ければ関東と関西でも色が違います。関東の方が少しコンセプチャルな要素が多いような気はしますし、京都や金沢だと伝統工芸がさかんですので素材や技法からの問題意識を感じる作品が多いと思います。

とりわけ伝統を重んじる金沢や京都にある美術系大学では、前回のブログで書いたような「軽い」表現に対しては教授陣から無言のプレッシャーがある、と聞くことが多々あります。マジか…日本画科とか特に教授めんどくさそうやな。そういえば東村アキコさんの自伝マンガ「かくかくしかじか」では金沢美大の油画の作品講評会の教授陣の怖さが描かれていました。

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さて、私の出身校、大阪芸大ではそのあたりどうだったでしょうか。基本、大芸の美術学科はあまり絵を描きません。美術学科なのに漫画を描く人、バンドをする人、演劇をする人。先生なのにゴルフの練習をする人、生徒とキャッチボールをして遊ぶ人。制作においては基本、高いハードルは飛べる高さにまで下げてから飛ぶ、逃げられるうちは逃げ回る、というのが基本スタンスです。まぁこちらは島本和彦さんの「アオイホノオ」そのままです。いや、でした。10年前までは。今はもっとちゃんとしているはずです。ちなみに美術学科の同期で有名人といえば、ザ50回転ズでしょうか。涙のスターダスト・トレインを聞いたときは泣きそうでした。

そんな環境で絵を描いていたので、「教授陣からの無言のプレッシャー」も「講評会の厳しい評価」もあまり想像ができません。

先生が生徒の描く絵の良し悪しを評価する―評価する側/される側の関係は常に非対称です。「評価」というものは常に非対称な形でしか成り立たないので、そのこと自体は別に問題ではないと思います。しかし、一方で評価する側は何を以ってその評価基準の正当性を担保しているのでしょうか。なぜ自らの判断、価値の評価の無謬を確信できるのか。

私は「表現」というものは例えば、3年間敷きっぱなしにしたフトン、3年の間には汗や湿気を吸いまくったであろうフトンを久々に片づけたら床とフトンに間にキノコが生えていて、その「キノコ」のように自然発生的なもの、土着的などうしようもない「何か」をそう呼ぶのだと思っています。それを「人間の業」とか「複雑化した現代社会」とかいう風に大げさに換言して、クリアなコンセプトを作り上げるところから日本の「現代美術」、もしくは「アート」の滑稽さは始まるのです。

その「キノコ」を初見の時点で「これは素晴らしいキノコだよ!」とか「全く無価値だね」とかいうことは誰にもできません。ある程度時間をかけて、調理法や利用法を探った上でようやく価値が定立するからです。食用にはならなくても、薬用にはなるかもしれない。猛毒かもしれない。これから一気に拡がっていくかもしれない。それと同じように表現においても「それがどれだけの価値なのか」ということは(その価値が大きければ大きいほど)同時代の人間にはきっと理解できず、ずいぶん後になって事態を俯瞰できるようになった時初めて可逆的な形でその価値に気付けるのではないのでしょうか。それはちょうど15年前、村上隆さんがあまりに鮮やかに2000年以前/以後を切り分けた瞬間のように。そして当時もそのことにすら多くの人が気付けず、否定的な意見もずいぶん多かったように記憶しています。

さて、前述の50回転ズですが20代の人に話すと「高校生の頃、めっちゃ聞いていました!!」と言われたりすることもあります。高校生の頃…時の流れは音速なのですね。当時彼らが手売りしていたサイン入りCDを今も持っています。そんな風に、自分の表現もまだ見ぬ誰かに届けばいいなと思っております。

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今回、色々と考えさせられた東京滞在でした。TWW2015は今月28日までです!まだの方はぜひ!

トーキョーワンダーウォールを観に行こう!中編

18時に閉館の現美、レセプションは18:15から受付です。ミュージアムショップにいたのですが、閉館の音楽が流れアナウンスでも「18:00閉館です」と重ねられ、同時に慌ただしくレセプション用のマイク、椅子の準備や食べ物が並べられていくのを見ると一度外に出た方がいいのかな?と思い外に出ました。

降っていた雨は小降りになっていたので、今のうちにコンビニへ行っておこうと歩き出した途端に豪雨…びしょびしょで美術館に戻り、中で待っていればよかったと後悔しました。

さて、始まった授賞式では審査員の方々が審査の感想を述べられました。審査員は石原慎太郎氏、大巻伸嗣氏、鴻池朋子氏、杉戸洋氏、丸山直文氏、山村浩二氏、今村有策氏です。多くが美術家として高い評価を得ている方々です。

石原氏「次の時代に、古典足りえるような作品を!」あついですねー。

鴻池氏「小粒な作品が多く、審査していてイライラしました!もっと身体全体を使って、デッサンをするように対象に迫っていく作品を!縮こまらずに目一杯遊んでおかないと表現なんて出来なくなりますよ!」こちらもあつい。ご自身の作品ともリンクしますね。

杉戸洋さんは会田誠さんに似てらっしゃいますね。最初お見かけしたとき、会田さんは髪を切ったのか?と思いました。

パーティでは他の入選者の方とお話することが出来ました。20代の人や大学生の人との会話は視点やバックボーンの違いから参考になる点が多々あります。そんな話の中で、最近20代の人達は大学の先生から表現がどんどん「軽く」なっていると指摘されると言っていました。この文脈の「軽く」には「軽薄」というニュアンスが含まれていたように思います。そういえば「リアル・アノニマス・デザイン」という本の中で川崎和夫さんという方がデザインが軽薄なプロダクトについて言及されていて、そういった表現が増えてきているのが「気がかりだ」と書かれていました。表現が「軽く」なっているのは他ジャンルでも見られる傾向のようです。他にも「カワイイパラダイムデザイン研究」という本では真壁智治氏が、本来緊張感が有るはずの大学の建築の作品講評会で生徒が建築について語る際、「かわいい」という言葉を多用すると書いてました。「作品の説明がかわいいを核にして全体的にコトバが軽くなったのである。」(カワイイパラダイムデザイン研究よりの引用)軽いなぁ。しかし、こちらは前述の川崎氏と違い、それが何を意味するのか客観的に分析した上で研究テーマとしてその変化を有る程度肯定的に捉えていたように思います。興味のある方はご一読を。

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TWW2015の入選作品を観た私の意見は、最近の絵画は表現が「軽薄」なのではなく、どんどん「軽妙」になってきている、というものです。もっと肯定的な評価を与えられて然るべきだと思います。かわいい作品も多かったですよ。(*ちなみに、別に今回審査員の方から「作品が軽い!」という発言があった訳ではありません。文章の順序で分かりづらいかと思い、念のため補足を。)

50代、60代の方々が「だーかーらー!!こういう表現じゃなくてさぁ!!!もっとこう、さぁ!!」というのも分からなくはないですが時代は変わったのです。石原氏の言うような次の時代の「ニュースタンダードな作品」像も、今までのような特定の基準の中で高水準な「大振りな作品」の価値も、すべて近代という時代の残滓であって、およそ「現代」では機能しないものなのではないでしょうか。もはや「歴史」は単線的に一方向には進まないのです。(そんな事を書くと「そもそも公募展に出品すんなよ!」と言われてしまいそうですが…)

もっと言うなら、「現代」の日本に、重々しく取り扱わないといけない問題などあるのでしょうか?例えば内戦をしている国から逃れてきたアーティストが、逃げてきた時に持っていた家財道具一式をギャラリースペースに作品として展示する、とかなら「重さ」もあるのでしょう。(川俣正さんの著作でそういったアーティストが紹介されていました。)前回書いたヴァンディ・ラッタナのような作家なら軽い作品は作れないでしょう。そういった生死に向き合わざるを得ないアーティストに比べ、日常生活であまり生死を感じることのない日本人の言う「重さ」とはなんでしょうか?

美術が体系的である時代はとうに過ぎ、言語による思考では捉えきれない対象は増大しました。大体において、時代のターニングポイントは、無言で我々の真横を通り過ぎているのです。誰かがそれに気付いた時にはもう、「価値」や「意味」はそれまでとがらりと姿を変えているものなのだなと思ったTWWでした。

トーキョーワンダーウォールを観に行こう!前編

6/6よりトーキョーワンダーウォールが始まっています。それに先立って5日にレセプションに参加してきました。

会場は東京都現代美術館、18時過ぎに受付開始です。

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東京都現代美術館では「山口小夜子 未来を着る人」「他人の時間」の2つの企画展+常設展という組み合わせで開催されていました。現在はそれにトーキョーワンダーウォール2015が加わっています。

16時頃に美術館に着き、3つの展覧会のチケットを買おうとすると受付のお姉さんが「今からだとかなり駆け足での観覧になりますよ」と教えてくれました。映像の作品も多いので時間がかかるようです。迷った末に「他人の時間」+常設展を観ることにしました。

「他人の時間」展はアジア中心の作家セレクトで、海外のキュレターとの共同企画だからなのか、政治的なメッセージの強いものが多かったです。

カンボジア出身の作家、ヴァンディー・ラッタナの「独白」はパンフレット等によると「めまぐるしく変化するカンボジアにおける人為的、自然発生的な出来事や災害」がテーマだそうで、映像作品です。詳しい解説がパンフレットにもHPにも無かったので詳細はいまいちわかりませんが、おそらく過去に「何かしらの出来事」があった土地に生えているであろう2本のマンゴーの木の下で眠っている、自分の家族に向けて作家が悲しそうに語りかけるという形で映像は進みます。

悲しい雰囲気の中、モノローグで「世界に確固たる土台なんて無い。世界は未だ蒙昧主義の暗闇の中空に自身を浮かべている。」と言う作家。クールやね。。。また、その土地に眠っている他のたくさんの人たちに「もうすぐ季節が変わり、マンゴーの実が生る。甘く熟したマンゴーの香りを感じながら、安らかに過ごしてほしい」的なことを続けます。切なくてマンゴー食べにくくなるわ。。。(ちなみに、「」の中はすべて私の記憶から文字にしているので、詳細は実際の作品とは異なるはずです。)かなり直接的な映像作品のように思え、何かのメタファーを介してメッセージを伝える、表現する、というよりはドキュメンタリー的な作品のように感じました。もしかしたら「独白」しているのは作家ではなく、マンゴーの木の下に眠っているのも「家族」でもなく、作品上の設定なのかもしれないと思いましたが作家がプノンペン出身ということでその可能性はほぼないでしょうか。

何より「カンボジアにおける人為的、自然発生的な出来事や災害の記録」なんていう迂遠な説明しか載っていないパンフレットってどうなん?こういう作品はそれなりの背景というか、取っ掛かり的な説明が必要やろ?と思った作品でもありました。

その後、常設展を駆け足で見て回り、ミュージアムショップへ。東京のミュージアムショップは雰囲気がおしゃれですね。山口小夜子展の関係か、ファッション関係の本や小物も多かったです。展覧会観れなくて残念。

あとで知ったのですが、「他人の時間」展は次は大阪の国立国際美術館でやるんですね。。。自転車で行ける…

山口小夜子展観ておけばよかったかな?と思いましたが、とりあえずキリング・フィールドを観てから、もう一度大阪でヴァンディー・ラッタナ「独白」を観たいと思いました。