DAISUKE MAEDA

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2017年1月の投稿一覧

チガーヌ2月の展示!!

早いもので私が運営に参加するギャラリー、チガーヌは3月に1周年を迎えます。微妙に先です。ずいぶん中途半端な時期に「1周年です!」って言ったな。しかし本当に早いですね。お店も1年良くもったものです。

チガーヌの次回1月28日からはじまる展示は奥田文子さん、GALLERY MoMoの作家さんです。東京は両国にあるMoMoの作家さんの絵が大阪・船場で見れます。しかも2月4日はワークショップ「葉っぱのフロッタージュをしよう!」が開催されます。12時より随時受付、ぜひお越し下さい。フロッタージュってなに?という人のために説明を付け加えておくと、ちびっこの頃「こすりだし」と呼んでた、凹凸した所に紙を置いて上から色鉛筆やクーピーでこすり模様を写しとるあのやり方です。今回展示作品の中にもフロッタージュの作品があるそうですよ。

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お待ちしております!

シェル美術賞展を観に行こう!後編

12/19まで、国立新美術館でシェル美術賞展が開催されていました。レセプションが有ったので国立新美術館に行ってきたのですが、実際の入賞•入選作品を見た感想というか、2016年現在の絵画とその批評に対しての私の問題意識を備忘録的に残しておきたいと思います。

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まず、会場の53作品全体を見た私の感想は「割と作者の個人的な経験とか好みに依存して作られていて、共感しにくい部分、自分にはわからない部分が多いな」というものでした。今までもこういったコンペの入選作品展ではそう思う事はありました。しかし、実際に作者の方とお会いし、話をし、何を思い、何を考えてその絵を描いたのかを聞く事である程度は理解のきっかけを得る事は出来たのです。しかし、少し前から作品を見ても、作者の話を聞いても共感しにくい、良くわからないという作品が増えました。

私がある程度年齢を重ねたから若い20代の人の描くもの、考えが理解出来なくなってきた、という訳では無いようです。というのも、同年代の人や年上の人の作品でも「良くわからない」と感じる事が有ったからです。

上述しましたが原因として考えられる事は、絵画を描く際のテーマやコンセプトといったものがより作家の個人的なものに引き寄せて作られている事が挙げられるかもしれません。近年の傾向として作者の個人的なものから発想を出発させ、その中で作品を完結することを「良し」とする傾向が作家側にも評価をする側にも有ると思います。個人的な部分に依っている分、そこに描かれたものは良いとか悪いとかの評価基準では語れません。その人の個人的な好みにまで他人が口出しする事ではないからです。しかし個人の好みやその人の主観的な感情などは他人に理解のきっかけを提供する事をしません。そういった理解のきっかけが無い作品が多いように感じたのです。だからこそその「好み」が似たような人は直感的に「理解できる!」となりますし、「好み」が合わない人は結局理解出来ないのです。それが絵画の新しい形なのか、それとも絵画にとって良くない事なのか、現時点では私には判断が出来ません。

例えば今回の審査員賞である「白昼夢のままごと」という絵の中には、子供の腕が絵の中に出てきます。

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これは作者の木村鮎子さんのお子さんの手だそうですが、審査員の島敦彦さんは「私は子供が好きだから子供の手が入っているだけでうるっときまして」と表彰式でおっしゃっていました。私は評価する側の人間が個人の「好み」を口にした事に少し驚きました。当然、子供嫌いの方も評論家や美術館関係者の中にはいらっしゃるでしょう。極端な話、その「好み」の合わない二人が「白昼夢のままごと」を巡って議論する際、平行線であろう「好み」を議論に持ち込み戦わせる事もあるのでしょうか。個人の「好み」は果たして評価の基準となり得るのでしょうか。

とは言え今回の場合は「白昼夢のままごと」は絵画的に優れた水準をクリアしており、その上でちらっと個人の「好み」の話が出た、ということなのでしょう。ただ、どのあたりまで評価に「好み」を持ち込む事が許容されるべきなのか、という問題に対しては慎重な姿勢が必要だろうと思います。

一枚の絵画に向き合い善し悪しを判断するとき、絵を描く制作側の人間は割と「好み」で作品を評価します。我々制作者側は往々にして「絵画って結局好みじゃない?」という事を平気で言うのです。私はそれは違うと思っています。

絵画の評価基準が「好み」であるとすれば、我々制作者側の人間はまず第一に市場の、顧客の「好み」に沿った作品を作らなければなりません。きれいな風景やかわいい動物とか。しかし我々制作者側の多くはそうなると途端に「いや、自分の好きなように好きなものを描く!市場原理やニーズに合わせる事はしない!」と矛盾しまくった事を真顔で言います。それは暗に専門の技術と知識で絵を描く自分の評価基準=好みは正しく、それらを持たない市場や他の人の評価基準は正しくないと言っている事と同義で、「好み」を評価基準に採用している場合は一種の傲慢となるでしょう。

特に困るのは、「好み」を元に個人的な評価基準を採用してしまうと誰もおぞましく気持ちの悪いものは好まないので結局そこら中が明るく楽しい絵画で溢れかえってしまうようになります。結局ニーズに依ってしまうと同じような絵ばかりになり、社会の多様性を担保するはずの芸術、アートが一元的になるという本末転倒な事になりかねないのです。

本来そういった事態に対して、論理を用いてある程度みんなで共有できるような評価基準を提供しストッパーとしての役割を果たすのが評価する側のいわゆる「批評」と呼ばれるものです。絵画を含めた芸術全般の役割は、不愉快で見たくはないけれど目を反らしてはいけないもの、気持ち悪く不可解だけれど受け取り、みんなで考えていかないといけない問題などにスポットを当てる事でもあります。そういった作品が社会的意義を認められ、世に出ようとするとき「なんでこんな気持ちの悪いもん見せられなあかんねん!」という意見に対し、「なぜそれが必要か」を論理的に「好み」を超えて「批評」が説明しなければなりません。

また「好み」というと批評的視点を欠き説明不要なワードである雰囲気があります。「なんかわからんけど好き」とか「直感で好き」とかふわっとした言葉と組み合わせても使えます。人々が芸術、アートのメインの評価基準に「好み」ばかりを採用するようになると、どうしても声の大きい人や、社会的、政治的地位の高い人の「好み」がそうでない人達のそれより優位になります。そうなると(また極端な話で恐縮ですが)「君の絵は『あの方々』の好みではないようなんよね。好みに合うよう描き直して欲しい。言わんとするところは解るよね?」と戦時中の日本で言われたであろうセリフや、かつて政府が芸術、アートの「公式」を設けていた数々の社会主義国家のような事に成りかねないのです。

そうなると我々制作側の人間は投獄されても拷問されても「それは違う!」と言い続けなければならないのですが(仮に誰かの圧力に屈して主張を曲げてしまうと、途端に今までの作品も、これからの作品も説得力を失うからです。論理以外の圧力によって曲げられる主張は作品の核としては弱く、その主張に依って成り立っている作品には価値はありません。)それも中々難しい事です。

民主主義国家でなおかつ先進国である日本でそんなことは無いだろうとは思うのですが、ここ最近は「好み」を軸に芸術、アートが語られる事が増え、相対的に元々脆弱だった「批評」がさらに力を失っていると思います。やはり「好み」で絵画を組み立てる事には問題があるようですね。ここで述べた事が「考え過ぎ」だったらいいなと思った今回のシェル美術賞展、東京滞在でした。