巷では「写実絵画」がブームだそうです。以前に比べて価格が2倍、3倍に上がっていると、たまたまWeb版の日経新聞で見かけました。
そう言われてみれば最近「写実絵画」、その中でも一昔前に美人画と呼ばれていたような作品を見かける事が増えてきた気はします。
こんな感じの。黒田清輝のような雰囲気の絵を見ることが多い気はします。
しかし、現代において、写実的•再現的な絵画を見る時、私の頭を「絵画とは何か」というモダニズム的な、少々古めかしい自己言及的な問いがよぎります。
例えば、椹木野衣氏の「日本•現代•美術」や北澤憲昭氏の「眼の神殿」、佐藤道信氏の「美術のアイデンティティー」など、90年代後半頃から美術の制度史的な面にフォーカスを絞った本を見かけることが増えました。これらの本は明治に輸入された「美術」という概念が日本の社会に、民衆にどのように受容されてきたか、もしくは美術という制度を通して受容を強いてきたか、が論じられています。
あまり言及されませんが、美術とは「制度」なのです。
それは美術が「アート」に名称を変えた現在であろうと、その事だけはどうしようもなく変わらず、美術(アート)とは「見ることの制度」なのです。
『いや、だからさぁ!もっと広い意味で捉えりゃ!美術そのものも!なんちゅうか見ることの〈制度〉ということは出来ひんか?美術への構造主義的、記号学的アプローチが可能とゆうんであれば、この点でやろ!?けどさぁ、この種のアプローチじゃあコードが「見ること」の側じゃなくって、「見えるもの」の側にばっか求められとんちゃう?その場合は「見えるもの」、まあとりあえず、微妙に違うんやけど一旦「記号」と言い換えようや、「記号」がどんな状態に置かれとろうと、常に、既にあるもんっちゅうか、無条件に固定されたもんちゅうか、いつもおんなじもんが想定されとる!けどやで、「記号になる」瞬間ちゅうの?そういうもんが考えられるべきちゃうんかな!「見えるもの」—ひとつの色彩、ひとつの対象—がそれ自体で「記号」ちゅうわけではないんよ!それは多分、ディスクールの実跡のなかで記号「になる」んちゃうか?理解できんか!?お前にも解るように言うたろう!「見えるもの」が記号になるんは!例えばひとつの林檎が「静物」と呼ばれるとき!例えば美人のおねーさんが「美人画」と呼ばれるときちゃうかっつってんの!それは林檎を描いたり、美人さんを描いたりすることがそれ自体で絵として成立してまうこと、もっと言えばそれが「美術であること」を合図しとる!それは既にディスクールやろがって事じゃ!』
まぁこんな荒い語気でも、関西弁で言ったわけでもないでしょうけど、40年くらい前に美術と制度の問題を指摘したのが宮川淳氏でした。
美術やアートとは、その制度を自覚し、その枠から出ようとする、もしくは拡張しようとする行為の謂いであるのだ、と私は主張します。そしてそれは過激な態度であるべきですし、そうでないとまた意味もないのです。
「写実絵画」がただ写真のように描くだけではなく、例えばその描かれた人物の内面や心情、人間性まで見事に表していたとして、加えてそれぞれの作家の個性が強く表れていたとしても、それは単なる照明や光、ポーズの演出の中に、描く者、観る者双方の制度に促された視線が捉えた虚無にも似た幻影では無いかと思ってしまうのです。権力や制度と結びつき、それ自身に沿って現実を形成していく言説をディスクールと呼ぶ、というのであれば。
まあ「絵画」の方向性もそれぞれ、価値観もそれぞれなので何が良くて何が悪いという事ではないのかもしれないですが、マーケットや現状に対して、制作者側からも問題提起を、ということでこれを記します。
*参考文献「美術史とその言説」宮川淳 水声社


