DAISUKE MAEDA

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2018年10月の投稿一覧

めっちゃどうでもいいはなし 大阪弁編

前回からの続き

「紅葉見に行こうやって誘われたー!!」先日、お昼を食べていた時のことである。一緒に食べていた女の子が突然言った。聞くと、ある男に京都に紅葉を見に行こう、と誘われたらしい。その女の子は見るからに嬉しそうだった。私は、その子自身も好意のある人から誘われたのだと思い、良かったやん、と軽く言ってみた。しかし、その女の子は、「紅葉には一緒に行くけどー、その男からの好意自体はどうかなぁー、あんまりかっこよくはないんよなぁ!京都行ってからその事を相手にゆうわぁ」と言い出したのである。「いや、京都行かんでも先言えるやろ!」と私は言った。

しかし、その女性は次の言葉で、「何を着て行ったら良いと思う?」と言ったのである。完全に舞い上がっている。「知らんわ、何でもええんちゃん?どうせ振るんやろ?」と言いかけて私は、そういえば男同士で、好きな女の子とどっか行きたいなー、どうやって声かけよ?と話になることは多いが、女の子側の話はあまり聞かへんな、と思ったのである。そう考えると非常に興味が湧いたのである。しかもせっかく男に誘われたのに、それを振ろうという見た目普通の女の子である。後学のためにも知っておかねばならない。

「やっぱワンピースやろ!男と二人で出かけるんやったら!」と私は相手に提案してみた。好きな男の前でないと、あんな動きにくい服は着えへんやろ、相手の男を、期待させてめっちゃ空振りさせたろう、と私は考えたのだ。性格の悪いやつだ。するとその子が「せやろ、普段より、女っぽい服にして、期待させてから振りたいんよ!」と力強く乗っかってきた。そして、「靴どうしょうかなー、やっぱ華奢なヒールがいいよなあ、歩きにくいけど、ヒールやと階段なんかで男も手を差し出すよなぁ、車の乗り降りも自然と男がドアを開けて、支えてくれんちゃん!?」と言った。あまりの舞い上がりっぷりに、私は「いやー、スニーカーでええんちゃう?ヒールなあ、まあ確かに道の悪いところやと、まあずっこけかければ支えてくれるかもなぁ、まあ相手次第ちゃうのん?」と言うのが精一杯だった。

二人で京都に出かけ、紅葉ではしゃぎ、普段より親密な雰囲気でその女の子と接し、町家を改装した趣のあるお店で食事をしたぐらいのところで、その男は見事に振られるのである。しかもどうみても、早く好意を告げてほしい、と言っているような女の子に、である。そして女の子は言うのだ。「まさかさぁ!そんな好意を持ってもらってるんやなんて、全然気付かんかったー!!笑。ごめんなぁ!!けどウチよりもっとええ人おるって!!ウチはあんたが思ってるようなんじゃないよー。」そして、別れ際「友達として、あんたのことが大切なん、これからも仲良くしてな。」と言って締めくくりたいらしい。私なら京都に捨てて帰る。

こんな新喜劇みたいなノリで、相手の好意を踏みにじって、許されるのは誰もいない。私は自分が女でなくてよかった、と思った。

*この話は先日自分の身の回りで起こったことを標準語と大阪弁で記述し、比較したものです。同じ日本語なのにキャラクター造形から、登場人物の関係性まで全然違う…

大阪弁は、真実を語るのに向いていない言語ではないかと思った、という話でした。

 

めっちゃどうでもいいはなし 標準語編

「紅葉をね、見に行こうと誘われたのよ」先日、お昼を食べていた時のことである。一緒に食べていた女性が突然言ったのである。聞くと、ある男性に京都に紅葉を見に行きませんか、と誘われたらしい。その女性は少し嬉しそうに微笑んでいた。私は、彼女自身も好意のある男性から誘われたのだと思い、良かったじゃないか、と言ってみた。しかし、その女性は、紅葉には一緒に行くが、その男性からの好意は受けられない、京都でその事をきちんと相手に伝えるつもりだ、と言い出したのである。ほう、そんなもんか、難しいもんだと私は思った。

しかし、である。にも、関わらずである。

その女性は次の言葉で、何を着て行こうかしら、と継いだのだから男の私としてはやってられない。男性同士の内輪話で、意中の女性を誘うにはどうしたらいいか、どうすれば好きな女性に興味を持ってもらえるのか、などはよく出る話題ではあるが、時間をかけてその方法を考えても当の女性は冷たいものである。そこまで考えて、しかし私は男性からこの手の話を聞くことは多くとも、女性から聞かされた経験はあまりないな、と思ったのである。そう考えると女性側からの視点で、今回の出来事がどう見えているのか非常に興味が湧いたのである。しかも男性に誘われて、それを振ろうと言うほどの美人である。後学のためにも知っておかねばならない。

やはりワンピースじゃないか、男性と二人で出かけるなら、と私は相手に提案してみた。好意のある男性の前でないと、あんな動きにくい服は着ないだろう、相手の男性を、期待させて空振りさせてやろう、と私は考えたのだ。いや、正確に言うと、目の前の女性が口に出しにくいであろう願望を代弁してみたのだ。そうね、普段よりは、女性らしい服装をしないとね、と彼女は言った。そして、靴はどうしようかしら、と続けるのだ。華奢なヒールがいいと思うよ、けれど歩きにくくないかしら、そうだけど、ヒールだと階段なんかで男性も手を差し出しやすいし、車の乗り降りも自然と男性がドアを開け、手を出し支えてくれるようになるよ、というやりとりをしたのである。

二人で京都に出かけ、紅葉を楽しみ、普段とは違う距離、雰囲気で彼女と接し、町家を改装した趣のあるお店で食事をしたぐらいのところでその男性は見事に振られるのである。しかも一見すると、早く好意を告げてほしい、と言っているかのような女性に、である。そして女性は言うのだ。「まさかそんな好意を持ってもらってるなんて、少しも気付かなかったわ。ごめんなさい。けれど私より、もっと良い人がいると思うのよ。私はあなたが思っているような人ではないわ。」そして、別れ際「友達として、あなたのことが大切なの、どうかこれまでとかわらず接してね。」これで茶番は完璧である。

相当の美人でないと、こんなことをして許されないだろう。私が女性なら一度くらい、こんなことを言ったりやったりしてみたい。

次回へ続く

 

 

お前が死体になる前に その3

前回前々回と学生の時から付き合いのある、死体を描く「画家」笹山直規がVOCA展に出品することに対して色々書いてきた。特に前回の批評文は我ながら核心をついているな、と自画自賛である。今回は、今までの文章で、あまり触れる事が出来なかったVOCA展について、それがどういった展覧会であるのか、また我々制作側の人間がVOCA展をどう思っているのか、その辺りに触れてまとめとしたい。

VOCA展とは第一生命がスポンサーになり、40歳以下の有望な作家を美術評論家、学芸員や美術ライターが推薦し、展覧会をする、という、若手作家の登竜門というか、まあ詳しくはリンクを貼っておくのでそちらを参照して頂きたい展覧会である。

おざなりな紹介になってしまった。というのも、後に世界的な活躍をみせる作家を数多く輩出してきた展覧会であるが、その割に実は我々制作者の間ではすこぶる評判が悪いのだ。

理由は(私の考えでは)主に2つある。

1つは、選考の基準、作品のレベルがバラバラであるという事が挙げられる。毎年発行されるVOCA展のカタログには、推薦者の推薦文(推薦理由?)が作品と併せて掲載されるのだが、美術ライターや地方の美術館学芸員などの推薦文、推薦理由がう○こみたいなものが多い。読んでいて馬鹿じゃない?というか美術なめてんな?と思うような推薦文も少なくないのだ。いや本当に。特にこの作家を推薦しないといけない、世間に広く知らしめたい、という使命感と必然性が弱く、お前本当に必死になって推薦すべき作家を探したのかよ、と制作者側は少なからず思っている。もちろん、いい意味でこちらが思いもよらなかったすごい視点で作家を推薦している人もいるが、そういう人は著名な美術評論家であったり、世情に疎い私でも知っているような研究者、学芸員であったりする。また、(これは偏見だと言われれば認めるし、謝罪もするが)推薦者は中高年の男性であることが多く、それ故古い価値観で絵画を語ったり、下心丸出しで若い女性作家を推薦してたりして我々制作者側をさらにイライラさせるのだ。

2つめは、これは難しい問題かもしれない。VOCA展における作品の評価基準が、概ねモダニズム的な絵画論で貫かれていることである。これはVOCA展の選考委員の中心人物である「高階秀爾(大原美術館館長)、酒井忠康(世田谷美術館館長)、建畠晢(京都市立芸術大学学長)、本江邦夫(多摩美術大学教授)の4氏の批評的立場が、絵画の本質を絵画によって追求するモダニズム絵画論に依拠していること」(現代美術用語辞典Ver.2.0−福住廉 より引用)が理由で、全体的にその傾向が強く出ているように思われる。余談だが、この福住氏の「絵画の本質を絵画によって追求するモダニズム絵画論」という表現は本質を突いていると思う。それはどう考えてもトートロジーな自己言及であり、暗にモダニズム的な絵画論の限界を示唆している。

現代の絵画はこのモダニズム的な枠組みには収まりきらないほど多様な展開を見せる。にも関わらず、VOCA展ではこの枠組みから外れた絵画を制作する作家は評価を受けにくい。その辺りも制作者側のフラストレーションが溜まる理由の一つであろう。平たく言えば保守的なのかもしれない。

「モダニズム的な絵画論」は概ねその歴史的役割を終えたようにも思われる。趣旨がずれるので、その辺りの議論、検証には詳細に踏み込まないが、恐らくこの意見はマイノリティなものでは無いはずである。

では、笹山直規の作品はどうであろうか。どうであろうかも何も、思いっきり「モダニズム的な絵画論」の枠組みからは外れる。というかオーソドックスなモダニズム的な絵画を会田誠氏は評価しない(前回参照)だろう。VOCA展は概ねオーソドックスな(モダニズム的な)絵画感で評価されるが、推薦者を毎年入れ替えるだけあって、その枠組みから外れた作品も散見される。

前回も書いた通り、笹山の作品は中身が無く、歴史的な視点も皆無である。その時点でモダニズムとはほど遠い。しかし、それらの変わりに、今、ここ、でしか得る事の出来ないドメスティックな時代の体温=生を逆説的に浮かび上がらせており、それは意図せずゼロ年代の倦怠感のある膿んだ時代性を上手く切り取っていた。その意味で、ゼロ年代独特のリアリティがあった。しかし現在は2018年である。それらの言説が未だ有用なのか、それとも推薦者である成相氏は全く別の文脈で批評を展開するのか。

笹山は「あなたの大事な人がこんな絵のような死体にならないように、保険は第一生命!ってだめかな?」とか言っていたが、勿論だめである。てかお前何年か前までVOCA展の推薦を受ける事は作家として死刑宣告に等しい!って言うてたやんけ。

それくらいVOCA展は、絵画における様々な矛盾を内包し、なぜかその矛盾の隙間から世界的作家を輩出する、という、制作側にとって何とも捉えがたい展覧会なのである。