「しかし、かれらの生活は、その地の土壌に仮の根をのばしはじめていたにすぎなかった。植物は、冬の訪れとともに地表から姿を消すが、種子は土の割れ目に入って春の訪れとともに多くの芽を吹き出す。それは、土壌との毎年約束された合意による物だが、かれらはそこまで土の信頼を得るには至ってはいなかった。村落の者たちは、四年以上も前にその地に入植したが、今もって一個の死者も埋葬することをしていなかった。(中略)土との融合は、植物の種子が土に落ちるように死体を土に帰することによって深められる。人間の集落には、家屋、耕地、道とともに死者をおさめた墓石の群が不可欠の物であり、墓所に立てられた卒塔婆や墓石に供えられた香華や家々で行われる死者をいたむ行事が、人々の生活に彩りと陰影をあたえ、死者を包みこんだ土へのつつましい畏敬にもなる。」(吉村昭著「羆嵐」より引用)
厳しい環境の中で、少しずつ収穫を増やし、生活を安定させていく六線沢の集落に、突然、招かれざる客があらわれる。本格的な冬を前に、ねぐらを得る事が出来なかった「穴持たず」の羆である。
現代を生きる我々にとって、クマはどこかかわいらしいイメージがつきまとう。しかし、それは「熊」と「羆」を混同しているからだという。本州に生息する「熊」は大きくても100kg強で、木の実などを常食としている。この大きさなら、全盛期のエメリヤーエンコ•ヒョードルであれば五分で打ち合える。彼のヘビー級では類を見ない踏み込みの早さと強力な連打があれば、いける。対して、「羆」は肉食獣で体も大きく、中でも本作に出てくるものは重量383kg全長3.6mの特大である。あかん、人間では勝てない。
集落を強襲し、人を食い殺した羆に対し、住民は戦々恐々の大騒ぎにになる。すぐに近くの三毛別村落に応援を頼み、いくつかの村田銃と、鍬や鎌をもった男たち50人がやって来た。安堵の空気に包まれる集落にあって、しかし羆は巧みに追撃を躱し、まるで裏を掻くように次の家を襲撃する。羆は獰猛な反面、非常に賢い動物でもあるのだ。追撃する側は、その狡猾さに驚き、また新たに食い殺された仲間の損傷の激しい肉体を眼にし、徐々に恐怖を抱きだす。自分たちに羆を狩る事はできない。こちらが狩られる側だと思い知らされるのである。
作中、ある家が襲われている描写がある。男たちはその家を取り囲んだは良いが、羆がいる中に入って行ける者はいない。かといって、まだ生存者がいるかもしれないのに外から矢鱈滅多に銃撃する事もできない。火をかけ焼き殺すなど以ての外である。どうすれば良いか、気も顛倒した男たちが決められない中、日露戦争で従軍経験のある元一等卒の男が意見を出す。
「まず家の入口附近に五人の銃携行者を散開配置させ、その一人に銃口を空に向けて二発弾丸を発射させる。その発砲音に驚いて羆が戸外にとび出してきたところを、一斉射撃で射殺するのが最善の方法だろう」
男の戦場経験が頼もしすぎる。しかし、ほぼ完璧なこの作戦は、射手の技量の未熟さ、取り囲む男たちの練度の低さにより、失敗してしまう。もうだめだ。鉄砲の扱いに長けた専門のマタギを呼ぶしかない。集団を指揮する区長は、悪名高いマタギの「銀四郎」を呼ぶ決意をするのである。
ところで、やはり草を敷き詰めて作った家では、雪風も、まして羆のような外敵も防ぎきれない。家は強く固い外壁があってはじめて「家」として成り立つ。建築は守るために強くなければならない。
この事件よりおよそ80年後、青森県立近代美術館の建築案コンペで、当時三十歳に満たない藤本壮介氏が「弱い建築」なるものを標榜し、審査員の度肝を抜く事など、この時誰が予想し得ただろう。特に、審査委員長の伊東豊雄氏は1941年生である。建築は、境界は強固なものでなくてはならないと身に染みている世代だろう。「弱い建築」とか「曖昧な境界」とかプレゼンで言われてよく認めたものだと思う。その建築概念の変遷を醸成した80年の「時間」というものを思うと、私は今まで「時間」を、ごく子供らしい仕方でしか理解していなかったのではないか、と思ってしまう。
最近特に思うのだが、時間の流れが速すぎて日々の生活に着いて行けない。毎日が単調だからかもしれないが、何とかその危機感があるうちに時間に対しての概念に新しいグリッドを差し込んでおかないと、気がつけばおじいさんになっている、という事にもなりかねない。
とりあえず、自分の持っている時間軸をもう少し俯瞰した状態で見れる視点を設定する事から始めてみたい。我々の世代の寿命は、長い人で100年だそうなのでまずその単位での変化を想像し、日常よりもマクロな視点で時間を眺めてみようというのである。といっても100年先の未来は想像の仕様がない。そこで100年前の日本の状況から今までの変化を見てみようと思うのだ。
ちょうどタイミング良く、約100年前の出来事を描いた本を読んでいる。吉村昭著「羆嵐」である。北海道の開拓民の、まだ歴史の浅い集落が、冬眠し損ねた「穴持たず」の羆に襲われた事実を元に構成し直した長編で、大正3年の出来事である。
え、100年前ってまだ北海道は開拓中やったん…というのがまず最初である。開拓は江戸時代や明治の時代の話で、大正にもなると正直広大な農作地や牧歌的な酪農のイメージであったが、どうも違うらしい。いや羆が集落に現れるのにも大分驚いたけど。
その集落ではどのような家に住んでいたのだろうか。北海道は雪深い。嘸かし雪や外気に対して知恵や工夫が凝らされた家だと誰でも思うではないか。
「男たちの手で家づくりがはじめられた。帝室林野管理室の許可を得て山林から材木が切り出され、それを蔓で組み立て、周囲を草でかこんで樹皮の屋根をふいた。が、家といっても出入り口と窓に蓆を垂らし、床にイナキビ殻や笹を敷き詰めた粗末な小舎にすぎなかった。」
「限界デザイン(三宅理一、TOTO出版)」という本を読んだ事がある。人は究極においてどのような家に住むのか、住宅における生存の為の限界デザインとは何か、という事に論及した本である。前者は内戦や災害に見舞われた人、後者は南極や砂漠のような極端な環境下において、住宅はどのような形を取り得るのか、実例を挙げながら論じられている良書である。しかし、上記の北海道の集落はその限界デザインを軽々割り込んだ。厳寒地で出入り口や窓にムシロしかないってそら水こぼしただけで凍るやろ!と思った。
「出入口や窓の蓆をひるがえして雪まじりの寒風が絶えず吹き込み、鍋に残った雑炊は凍り、濡れた床には氷が張った。」
やっぱりか。そしてその集落を悩ませたのは雪だけではないようだ。
「四月に村落をおおっていた雪が融けはじめるが、地表が露出した頃からアブ、蚊の発生がみられ、それは十一月初旬の初雪が舞う頃まで姿を消さない。(中略)その激しさに、人々は、眼の部分に蚊帳布をたらした布袋を頭からかぶって耕作したが、馬はアブと蚊に体をおおわれて狂ったように暴れまわり、使用をしばしば断念しなければならなかった。(中略)小さな糠蚊が大量発生し、あたり一帯が白くかすんだ。それらは、露出した皮膚に糠をまぶしたように附着し、人々は激しい痒痛におそわれ、中には高熱を発して苦しむ者もいた。」
凄まじすぎる。「限界デザイン」の中にもここまで過酷な状況を想定した例は出てこなかった。しかし、差し迫った問題として、彼らは生きねばならないのだ。
昔の方々の忍耐と真面目さには本当に頭が下がる。しかし、これは政府の移民奨励政策だった訳だから、政府の重大な人権軽視でもある。政府は事前調査をしっかりやるべきだったといっても当時はそんな時代ではない事に、100年の月日の厚みを感じる。
結局、虫が原因で彼らはその土地を捨て、近くの六線沢というところに新たに集落を作る。
芸術やアートなど全く出番のない過酷な時代、土地である。もし絵を描いている者がその集落にいれば、早よ畑耕せや!!と家族全員から殴る蹴るの指導、教育を受けたことだろう。いや、凄まじい時代に来てしまった。しかし驚く事に彼らは、六線沢で毎年少しずつ増える収穫や、苦楽をともにした周りの人々との交流に、幸せを感じ、割と楽しそうにする場面も作中描かれているのである。私は現代の価値観に毒されているのかもしれない、そんな事を思いながら、本格的に羆が登場する次回へ続くのである。