DAISUKE MAEDA

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2019年8月の投稿一覧

百年の孤独 後編

「しかし、銀四郎はたしかな足取りで明景の家に近づくと附近をうかがい、入口の垂れ蓆をまくった。家の内部には、肉の匂いがむせ返るようにみちていた。そこには斉田の妻と二人の男児の遺体がそのままの形で残されていたが、前日の検死の折とは異なって斉田の妻の遺体は原型を失っていた。海草のように頭髪のへばりついた頭部と片足の先端だけがころがっているだけで、その附近にわずかな骨と肉片が散らばっていた。区長は銀四郎の言う通り羆が女の体のみを食いあさっていることを知った。」(吉村昭著「羆嵐」より引用)

恐ろしいやつである。そんな恐ろしい羆を相手に、「銀四郎」は9mほどの距離まで、時には4mまで近づいて至近距離から射つという。当時の銃の性能の問題もあるのだろう。高速で発射される銃弾は、空気抵抗によって軌道が逸れる。現在のライフル銃のように空気抵抗の影響を極力受けぬよう精密加工するには、当時では不可能なのかもしれない。現に昨日の、40mほどの距離での一斉射撃では仕留める事が出来なかった。

本当に9mの距離まで気付かれず近づく事ができるのか。初弾を外せば次の弾をこめる前に羆の一撃に殺される。かといって、ちょっと銃が扱える程度の討伐隊の人数をこれ以上増やしても、羆に翻弄されるだけだ。「銀四郎」に賭けるしかない。この狂暴な羆を斃さない限り、三毛別村落と六線村の住人は、何年もの間身を削るようにして開拓したこの地を捨てなければならないのだ。

今、ラジコを聴きながらこれを書いているが、野田洋次郎氏が「愛にできることはまだあるかい」と歌っている。断言するが、ない。銃弾にのみ、やれる事がある。愛を口にするあなたの、その言葉の軽さよ。あなたがその言葉を口にするには、あと100年待たなければならない。

集団で動く討伐隊の男たちをうまく陽動に使い、羆の注意がそちらに向いている間に背後を取った「銀四郎」。しかし距離は30mほどで、まだ遠い。羆は山の傾斜をのぼってくる討伐隊の動きを見下ろしている。「銀四郎」は丘陵の淵に沿って一歩一歩、距離を詰めていく。彼と一緒に来た案内役の区長は、30mの距離で足が硬直し、雪の上に腰を落とし動けなくなっている。「銀四郎」は銃をかまえた。凍てつく空気をふるわす凄まじい発砲音。

「区長は、茶色い大きな岩石のようなものが二メートルほどはね上がるのをみた。そして重量感にあふれた音を立てて落下すると、周辺の樹木から雪塊が一斉に落ち、あたりは雪片で白く煙った。区長は眼前の光景が何を意味するのかわからなかったが、やった、やったと胸の中で譫言のように叫んでいた。」

しかし、心臓近くに打ち込んだ初弾だけでは倒せない。血のあふれる口から異様な吠え声を出しながら、立ち上がってくる。素早く第二弾を額に射ち込み、ようやく決着である。

これは100年ほど前の話で、それほど大昔の話ではない。およそ人生1個分の時間である。なのに価値観とか、行動原理が現代とは全く異なっていて、目眩を覚えるくらいである。なんか生まれた土地や世代で、価値観があわないというのもわかる気がする。それはよく言われるようなコミュニケーションの問題とは、どうやら根本的に違うようだ。「愛」と「銃弾」にできる事の違いである。

百年の孤独 中編その2

その時、さらに増援が到着し鉄砲も四十丁まで増えていた。しかし、それらを以て斃す事が出来ない狡猾な羆。それを屠る為に招かれた「銀四郎」とはどのような男か。

他人との争いの際は「相手に思いきり殴らせ、顔が血に染まっても薄笑いをうかべながら抵抗もしない。そして相手が疲労すると、それを待っていたように激しい殴打を浴びせる。(中略)漁村に行って、他の地方から流れこんできた二人の遊び人を相手に闘い、両方とも昏倒させて留置所に投げ込まれた事もあった。」「酒を飲んでいる折に銀四郎が突然茶碗をかみくだく習癖のあるのを知っている者も多く、かれらは、銀四郎の顔を思い出すだけでも不快なのだ。」(吉村昭著「羆嵐」より)

しかも聞くところによると「銀四郎」、金に困って銃を質草に村長から金を借り、今は銃がないらしい。借りた金で酒を飲み暮らしている。現在ではマンガや映画でも見かけないキャラクター造形である。

そんな男に羆が猟れるのか。しかし、区長は身銭を切り、銃を請け出すのでなんとしても連れてくるよう村の男に命じる。玄人にしかやれぬ事だという判断である。区長はアイヌの猟師を思い出していた。彼らは単独で羆を追い、仕留める。彼らは他人の同行を極度に嫌い、それは他人に自分の感覚を乱される事無く羆と対峙したいからで、一対一が羆を斃す基本的な条件と考えている節がある。

「銀四郎」に参加を乞えば、高慢な態度で男たちの無能を蔑み、村の結束を乱すかもしれない。しかしその危惧は的外れで、現れた「銀四郎」は区長の前で帽子をとり、災難だったな、と哀悼を示すのである。しかもあれだけ荒れ、酒を飲んでいた男が、羆を追跡する間は飲まない。区長に勧められた一杯に、申し訳程度に少し口をつけただけである。

深夜、最終の防衛線と考えられていた氷橋付近に、羆が現れる。集落に食べ物が無くなった羆は、餌を求めて人間の匂いがする街のほうへ出ようとする。羆は水に濡れるのを嫌うので、街に出るには川を越える唯一の氷橋の上を通るしか無く、村人と警察は何としてもその橋を死守しなければならない。

闇が濃い。最初は、切り株が一つ増えている気がする、という程度の違和感を、何人もの見張りが互いに確認しあい、動いたところで羆だと推定したのである。村人と警察は一斉射撃をする。「銀四郎」はそれを見るだけで加わらない。遠すぎて当たらないと判じたのだ。

羆狩りとは、かなり近い距離で急所に銃弾を撃ち込まないと斃せない。そのためには、羆よりも速く歩き、気取られる前に風下から背後に回らないといけない。

その翌日、集落に入った「銀四郎」は、追跡ののち羆の後ろを取る。同じく集落に入った討伐隊の男たちに羆の注意が向いている間に、背後に回ったのである。羆は山の傾斜を登ってくる村の男たちの動きを見下ろしていた。

がさつな乱暴者がその設定が嘘のような老練さを見せるではないか。駆け引きが実に巧みである。忘れてはいけないのは、「銀四郎」は大正時代に実在した男がモデルで、この物語は実際にあったドキュメンタリーだという事だ。こんな性格の二面性おかしいやろ。これを突出した異能と取るか、極端な精神欠陥と取るかはもはや時代の価値観次第である。100年あれば価値は反転する。なかなか恐ろしい事実であると思う。

選挙がありましたね

先月、令和になってはじめての参議院選挙があった。例によって若者の投票率が低かったそうだ。各メディアはこれについて、若者の政治への関心が低ければ意見が反映されにくくなるとか、本来若者に向け使用されるはずの予算、税金が減ってしまうなど報じている。

これらの報じられ方には二種類の問題がある。

第一に、「民主主義」の意味の捉え方である。基本的な事だが、「民主主義」とは「多数決」の事ではない。

例えば、学校の遠足で、動物園に行くか、水族館に行くかを決めるとする。30人のクラスの内、29人が動物園、1人が水族館に行きたい、と意見が割れ、単純に希望が多い動物園に決まればこれは「多数決」である。一方、29人と1人に分かれ、議論し、1人が「あるとても珍しい魚の産卵が水族館で見られ、それは今の時期しか見れない」と言った事により29人が意見を変え、今回は水族館に行くという事になれば「民主主義」である。

そもそも、「民主主義」の主語は本来マイノリティなので、少数の意見が無視されるのであれば、現状の間接民主主義は健全に機能していない事にはならないだろうか。

第二に、「若者の投票率が上がれば、問題は多少なりとも改善する」という言説の安直さである。仮に若者の意見が反映されるようになったとしても、高齢者や他の年代の方々が生活しにくくなるのであれば、それぞれの立場が入れ替わるだけである。問題は解決していない。それに、大多数の有権者が是とする政治的意見が常に正しいという保証などない。

選挙はより多くの票を獲得した候補者が当選する、という前提なのに「民主主義は多数決ではない」とはどういう事か。この矛盾は、現状の社会システムのバグと言えるかもしれない。

以上から導きだされる結論は、「間接民主主義は再発明されなければならない」となるはずである。

勿論、それはすぐに設計できるものではない。次善の方法は、新制度が作られるまでの間、与党と野党の議席数がおよそ半々となるよう有権者が調整し投票する事である。そうなれば、与党は議論無しでは主張を通せない。それだと手間がかかる、結論がすぐ出ない、という意見もあるだろう。しかし、政治の決断は、100年後の国の存亡に大きく関わる。歴史が示す通り、性急な結論を避けることが最大のリスクヘッジである。民主主義は完璧な政治形態ではないが、多数決よりは遥かにまともである。

しかし、上述のような意見は各メディアからは聞くことはない。これらが余りに自明過ぎるので、あえてみんな口にしないだけだと諸賢よりご指摘があれば、私は自らの不明を恥じる他ないが。