今現在、アート・美術の展覧会で、どの程度までの表現が可能か。
去年のあいちトリエンナーレの政治的なモチーフ、テーマの作品への表現の自由を巡る問題は記憶に新しい。(個人的には、あのような炎上前提の展示のされ方は、展示する側が表現の自由を逆に軽んじていることにならないか、と思わなくもない。とはいえ内容を直接見ていないので確かな事は何一つ言えないが。)
過去の展示でも、鷹野隆大氏の写真は、被写体の男性2人の裸体を通して微妙な距離感、関係性、ジェンダーを問う、とは受け取られずに猥褻物と判じられた。そう言えば明治時代にも裸婦像の下半身に布を巻いて展示する、といった事があったように思う。
NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]での吉開菜央氏の映像作品《Grand Bouquet/いま いちばん美しいあなたたちへ》の一部では、指が折れるシーンが暴力的だとして黒塗りで展示された。
オーストリアで会田誠氏やChim↑Pomが参加した、日本の表現の自由の限界をテーマとした「Japan Unlimited」は内容が反日的であるという批判が集まり、日本大使館の公認が取り消されている。
主に政治的なものや生々しくジェンダーを問うもの、暴力的、反日的なものが規制の対象となるようである。誰もが不愉快なものや難解なものは見たくないので、それは当然かもしれない。
私はアートが楽しいもの、心地良いものであると考えている。これは私と同じように、他の多くの人がアートをエンターテイメントに近いものと捉えていることの裏返しだろうと思う。美術館やアートイベントはとても楽しいので、休日に遊びに行ったり、デートで訪れるのに最適だ。美術館≒ディズニーランドである。もし私がディズニーランドに遊びに行って、反日なマッチョに政治的でセクシャルな暴力でぶん殴られたらそれは「夢の国やろがい!もっと普通に楽しませてーな!」とクレームするのが当然と考えるだろう。「いや、目の前にあるこれらがどれだけ気持ち悪くても、不愉快でも、社会にとって無視出来ない問題を含んだ内容だから、痛がりながらでも、分かりにくくても何とか考え、殴りかかって来た相手と意思疎通を図るように」と言い返されたら即刻裁判を決意する。「何で入場料払てやで!!遊びに来てるこっちがそんな嫌な気持ちにさせられながらめんどくさいことせなあかんねん!こっちゃ客やど!」と叫ぶだろう。万が一、裁判できないなどと弁護士に言われたら気持ちが収まらない。運営会社に毎日クレームの電話を入れる。
私は知的コストを出来るだけ支払わずに、緩く楽しく快適な毎日を過ごしたい。きれいなものだけ見たいのだ。資本は遊んだり、恋愛したり出来る場を用意し、そこから不愉快なもの、難解な物を排除して欲しい。政治的な問題は政治家が、ジェンダーの問題は専門の研究者が解決案を私に示してほしい。日本国民である事に誇りを持ちたい。私はきちんと税金を支払っているので、日本政府はそれらの要望を満たした生活の場を保証してほしい。それが私の持つ最低限の「幸せ」の権利である。
こうして文章にして見ると、私の考える「幸せ」とは非常に幼稚である。私は、快適さや楽しさが少額のお金を支払って得られるのは、十分な社会インフラと健全な社会制度が有ってこそであって、その両者の質は、私自身の知的水準、市民としての成熟度によって担保されているという事実にきっと気付いていない。私がその事実に気付かない限り、それは今ある社会インフラと社会制度を弱い酸のようにじわじわと溶かし、劣化させるだろう。
上記の展覧会の、それぞれの規制の問題の本質は、本当に表現の自由を巡る問題だったのだろうか。表層的に見れば、確かにそうである。
かつて近代国家は美術館、博物館、劇場、図書館、コンサートホールなどの公共的文化施設に自らを表象した。時代が進み、巨大な近代国家は解体され、やがて資本と「私」が次なる主体として現れたが文化施設を自らの権力意思の代理表象として捉えていることは異口同音である。資本と私は毎日を楽しむこと、幸せな時間を送ることを金科玉条とする。資本がエンターティメントを準備し、私がそれを享受する。そこに難解で手間のかかる批評や議論は存在しないし、またそれらを私は必要としない。
しかし、あえて言う。国民が制度や慣習を含め自国を批評するのは、民主主義国家として当たり前の事である。