表現の自由が危ぶまれる機会が増えている。ここ数年の藝大、美大の卒制展でも、政治的な問題や、ジェンダー、ナショナリズムをテーマとして取り扱う作品は展示拒否を言い渡されることがあると聞く。
その昔、共産圏の国々や、独裁国家では表現の自由が規制されていた。ソビエトの社会主義リアリズムは余りに有名だし、ドイツの退廃芸術展は未だに汚点であろう。そもそも独裁国家で表現の自由を認めていては政権批判され暴動に繋がりかねない。許されるのは政権を賞賛するプロパガンダのみである。そのような時代、社会体制であるならば、表現が規制されることは、あくまで理由としては理解出来る。
民主主義的な、「開かれた自由主義社会」では、表現の自由は社会を運営していく上でプライオリティは高い。表現や言論の自由が担保されている社会では、銘々が様々意見を出し合い、その中でおおよそ妥当性が低いとされた意見が自然淘汰され、妥当性の高い意見が残る。これは単にその時同意者が多い意見が残っていくという事ではない。短期的には最適解のように見える意見でも、中期的、長期的な視点で捉え直した時には誤りであった、という事も多い。長い時間が過ぎる中で、ようやく有用性が認められたり、正当性が認められる意見もある。一番分かり易い例は「大日本帝国」ではないだろうか。当時は正当とされた国家も、今では軍国主義を肯定する人はいないだろう。
第二次世界大戦の終焉で軍国主義は一掃され、ソビエトの崩壊で社会主義の実験は失敗したかに思われた。しかし、今や瀕死なのは民主主義的な、「開かれた自由主義社会」の方である。
アメリカではトランプがおよそ民主主義とは思えないような独裁的な手法で政治を動かし、国際的な混乱を引き起こしているし、イギリスでは記者時代からECの信用を傷つけるために虚偽の事実や誇張を交えていたと批判されたり、オバマ元大統領への発言が人種差別的だと物議を醸したボリス•ジョンソンが現首相である。財界からの要望がよほど強いのか、今や一番の親中国は日本である。財界の男妾と呼ばれたのは佐藤栄作だったか、と記憶が曖昧になる。
結局のところ、「開かれた自由主義社会」と「管理された全体主義社会」とでは、どちらが上手く社会を運営して行く事ができるのだろうか。20世紀では圧倒的に自由主義が優位に立っていたように思われた。しかし、今世紀に入って中国の発展は目覚ましい。一部では中国のように権力を持った中央政府が政治、軍事、司法、経済を一元的に統率出来た方が、国はスムーズに発展していくのではないか、という意見まで出てくる。それを裏付けるように、もはや日本の経済力は中国には到底及ばない。
民主主義とは多くの人の異なる意見を話し合いによって一つにまとめる複雑で時間のかかる政治形態である。この過程を丁寧に行おうとすればするほど費用と時間がかかり、遅い政治は今や秒単位で変化する経済の変化に対応できないと批判を受ける。ではここで経済の変化のスピードを落とし、政治と経済の歩調を合わせよう、という意見は相手にされない。全体主義社会のほうは意思決定が速いので、経済の変化にも対応し易い。それどころかレバレッジの効く投資経済で意図的に小規模なバブルを形成し、経済を大きく膨らませる、あるいは膨らんでいるように見せる事すら可能だろう。実体経済においても、特にそれが発展途上国である場合、先進国の過去の発展過程をモデルケースに、条件に合わせて最短で正解を選択し易すい。
我々は近隣諸国の凄まじい速度の経済発展を前に、悠長に話し合いなどしていては置いて行かれるのではないか、追い抜かれるのではないかと焦燥感を抱くのである。
結果、民主主義国では行き詰まった現状を打破できる人物が、市長や首相として求められる。当然、民主主義的な手法で時間をかけて解決方法を探ろう、という人物はこれに該当しない。もっとカリスマ性があり、敏腕経営者のように収益を上げ、強引なほどの決断力と、反対をものともしない遂行能力をもった人物が、つまり反民主的で独裁者のような人間が、あるいはトランプやジョンソンのような人間が、国民の一時的なフラストレーションを払拭するためだけに選挙で選ばれるのである。ちなみに先進国において現状の諸問題を単独で解決できる人物など存在しない。それは何人もの人間が集まり、時間と知性を掛けて組織的に解決するしか無い問題なのである。
単独で、短期間で解決しようの無い問題に対し、1人で解決できる、すぐに良いほうに大きな変化をもたらす事ができる、と明言できるのは独裁者と詐欺師だけだ。
「管理された全体主義社会」の中で、優れた指導者が間違えずに国民を導いてくれれば我々はどれほど幸せだろう。しかし間違えない人間など存在しない。全体主義社会のリスクは、指導者が間違えた時に歯止めが効かない事である。また指導者の権力を強化する為に神格化が行われている場合は、経済がどれほど悲惨な状況となっても、国民に飢饉で死者が出ても、その誤りが認められる事も、指摘する事も許されない。絶対の指導者は間違わないという前提のもと、悲惨な現状が狂気で肯定されるのは歴史が教える通りである。
現在の世界情勢で、経済を短期間で大きく成長させることが出来るのは間違いなく全体主義社会だろう。しかしそれは前述の国家存続のリスクと引き換えである。
私見だが、国家の目的は「存在し続けること」だと考える。そしてそれを支えるものがあるとすれば冗長性、それも馬鹿馬鹿しいほどの冗長性(リダンダンシィ)に他ならないだろう。社会的な冗長性を担保するものは、言うまでもなく表現と言論の自由に基づく多様な意見である。「開かれた自由主義社会」に優位性があるとすれば、正反対の意見でもどちらが正解かすぐに判断せず一旦それらを留保する事が可能な事だろう。時間の淘汰圧に耐える事ができた意見を正解とすれば良い。言い換えれば、アートであれ他の文芸の分野であれ、様々な思考実験が可能ということである。これらは中、長期的には社会に文化的恩恵と成熟をもたらすだろうが、短期的で単線的な経済成長とは引き換えである。それでは時間ばかり掛かって目先の金にならないと言うのであれば、我々は失ってから嘆くしかない。表現の自由が欲しいと。