DAISUKE MAEDA

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2020年7月の投稿一覧

本当の私、を誰も知らない その1

人はどのあたりまで自分から乖離した自分を、「私」として認める事ができるのだろうか。例えば、アイドルや俳優など、見た目や仕草が評価に重要な影響を与える仕事をしている人はありのままの自分をさらすことはできない。

だから周囲のイメージ通りの「私」を演じるのだろうけれど、確信を持ってこれは私だ、と本人が言える境界は、元の私からどれくらい離れた位置までなのだろう。仮に全身整形とかしているとかなり「私」の境界が揺らぎそうだと想像してみる。自分の好みからかけ離れた服を毎日着せられるというのも自己認識に影響を与えるだろう。もしかしたら身体そのものよりも服装や立ち振る舞いを強制される方が、自己は揺らぐかもしれない。

それに加えて、最近は各種SNSの発言に気をつけないとすぐに大騒ぎになってしまう。公の場で、有名人はほとんど台本のようなセリフしか発言することができないのではないだろうか。パブリックイメージを「演じている私」のセリフである。

そうなると悲鳴をあげるのは「本来の私」である。これがパブリックイメージとギャップがあればある程「本来の私」はより内面へと押し込まれる。パブリックイメージな私、が「本来の私」を抑圧しているのである。抑圧する私/される私と、私が複数存在する。

ところで日本語では「自分に甘い」や「自己嫌悪」といった言い方でも私が複数に分かれている。「私が複数存在する」というのは単なる言い回しの問題ではなく、言葉を使って我々が自己というものを理解する際の理解の仕方の、根幹に触れる部分だそうである。「パブリックイメージの私」は精緻な作りの仮面であって、人は役割の異なる仮面を複数所有しており、場面に合わせて「本来の私」が仮面を選ぶ。我々は「私が複数存在する」という形でしか自己というものを概念化できず、逆に言うとこれ以外の捉え方ができない。この構造こそが「私」である。多くの言語で「私が複数存在する」という概念化の構造は見られるとジョージ•レイコフとマーク•ジョンソンの「肉中の哲学」(計見一雄訳、哲学書房、2004年)が指摘している。もう少し難しい言い方をすれば「内的生活に関するメタファーシステムの一般構造は、一つの『主体』と一つまたはそれ以上の『自己』の間の根本的な区別の上に基礎を置いている」(統合失調症あるいは精神分裂病 計見一雄、講談社、2004年)ということになる。

自分を精緻に演じている人ほど親しい誰かには「本当の自分」を知って欲しくなるだろう。それは外からは見えない容れ物に入って蓋がされてあり、その蓋をあけ、中身を覗いたならば、それを見たならばもう他人の関係ではいられなくなり、互いの中身を覗き合う関係、というのは、その人がヘテロであればそれは夫婦というもののことだろうとは思う。

 

 

 

今日は雨が降りそう

和菓子屋さんで葛饅頭を買って食べた。透明の外側で、中にあんこが入っている。さらにその外側が笹の葉で包まれた和菓子は、手に取ると笹のとげとげするような、つんつんするような独特な手触りと清涼な香りが、饅頭のつるっとしたと感触と餡子の甘い匂いと上手く対になっている。

少し前まで、大手スーパーで売られているこの手のお菓子は笹の代わりにそれを模したビニールが巻かれていた。最近はまた本物の葉が巻かれているものも売られているらしい。

誰がその笹の葉を巻くかというのはこの場合重要な問題である。大手スーパーが巻く場合は美味しくなるから以上に「そのほうが売れるから」であって、味も情緒も度外視してビニールを巻いていた時代からのマーケティングのバージョンアップの結果である。一方、和菓子屋さんが巻くのは美味しくなるから以上にそもそも「そういうもの」だからである。前述した笹と饅頭の質感の対比が「味わい」であって、それが無いと「葛饅頭」として成立しない、というのが和菓子屋さんの主張である。少なくともそう思いたい。両者見た目は一緒である。

最近、「現代美術」と「アート」の違いについて考える事が多い。そんなこと今更気にせんでええやろと言われることがほとんどだが、もはや使われることの無くなった「現代美術」と呼ばれたものは和菓子屋さんが巻く「笹の葉」のようであったな、と食べながら懐古してみる。それには非日常な出で立ちでありながらきちんと奥行きも手触りも内面もあり、それを以て日常を包むことで「日常」のパースペクティブも刷新された。

複雑な内面があるから薄暗い精神の裂け目も表現することができた。例えば塩田千春の90年代の浴槽で土を浴びるパフォーマンス、エナメル塗料を頭から浴びるパフォーマンスをおさめた映像作品は、近代というダブルバインドによって身体と精神に生じる病理へ対処する為のネガティブな戦略と捉えることもできるだろう。アートがよく言う「遊び心」や「親しみやすさ」とは無縁の作品である。

時間は不可逆なので、現代美術に回帰したいわけではないのだが、それでも「アート」のフラットさやスマートさ、無理矢理おしゃれに尖らせた感じなどは見ていて中々ぞっとしない。

わかってもらえるだろうか。

大阪の京橋駅のごちゃごちゃしたところでおっさんが「今日は雨が降りそう、今日は雨が降りそう、雨が降りそうやで〜!!」とひたすら連呼していた。それをちょっとあれだからと無視するのではなくそれは近代のダブルバインドに対処する精神のネガティブな戦略の発露であると捉えるのが現代美術のスタンスである。それは確かに古い。90年代末の感覚だ。若い人にはご理解頂けないかもしれない。現在、ダブルバインドは解消された訳ではなくより巧妙に日常の中に隠された。だから昔のような直接的な表現ではそれに対処できないかもしれないが、ではそれをおしゃれに言ってみよう。サニーデイ•サービスで「雨が降りそう」である。

とても良い曲だと思うし、批判がしたいわけでもない。私はサニーデイ・サービスのファンである。同じことを言っているのだが、しかしアートのようにおしゃれである、と言いたいだけだ。