DAISUKE MAEDA

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2020年9月の投稿一覧

本当の私、を誰も知らない その3

人はどんな時に自分を取り繕い、演出する必要があるのか。

「仕事」と「恋愛」は最も自らを演出しないといけない場面だろう。という事はそれ以外の、つまり経済的利益と性欲を除外したところで成り立つ人間関係が、互いの「本当の私」を見せ合える関係ではないだろうか。中々タイトな範囲である。現代の日本で、多くの人が最重要事項と考えているのが「仕事」と「恋愛」だろう。それはもはや盲目的な信仰のようだ、と思うことさえある。お金も愛も、疑いが生じた時点で価値は消滅する。疑う事を許されないという点において、それは信仰とは同型である。

「わたしたちの文明がもっとも深くかかわり合っている文化的慣習が宗教でなくなるまで、わたしたちは宗教を客観的に論ずる事ができなかった。宗教の比較研究があらゆる問題点を自由に追求できるようになったのは、今日が初めてである。」ルース•ベネディクト著、米山俊直訳 文化の型 講談社学術文庫

なぜ仕事をするのか、なぜ恋愛をするのかはほぼ問われる事が無い。仕事と恋愛をある特定の時代の特定の社会の「文化的奇習」として距離を持って捉えないとこの種の問いは浮かんでこないのである。当たり前だが、生活のためとか結婚するためとかいう答えは目的と手段が転倒している。

ある文化の中で、制度とは社会の発展を補助する為に建設的に生み出される訳ではない。大抵の場合は内部の軋轢や衝突を回避する為に、取って付けたように生み出されるのである。よってその制度は、人々の不満や欲求には対処できても、必ずしも本質的問題を解決する訳ではない。時代や場所が変われば、その制度は全く問題を解決していないように見えることも多い。大昔の、人身御供や切腹といった制度が何かを解決しただろうか。

だからあなたが、「労働を義務とし、働けない者を甘えだと糾弾し容赦なく切り捨てる。そんなん理不尽じゃ!それでは生きる事の本質を見失うやろ!!」とか「お金がなかったら愛情も無くなるって、そもそも金に価値と意味を与えるのが、すなわち愛やろが!!」と主張しても、おそらく今はまだ壮大な空転を目の当たりにするだけだ。

「仕事」と「恋愛」の関わらないところに本当の私は居る。つまり現在の社会的な価値基準では欠落や未熟と見做されるような部分、例えば雨が降ってるのに公園で遊んで帰ってこないとか、綺麗な服を着て優雅に立ち振る舞うのが嫌いとかいった部分に、肯定的にその人らしさを見出せる関係が「本当の私」を見せ合える関係ではないだろうか。それは友達と呼ぶには熱すぎて、恋人と呼ぶにはぬるすぎる、特別な関係である。