DAISUKE MAEDA

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2021年3月の投稿一覧

失ったものはディティール

例えば、そこから逃げ出したくて仕方が無い人がいて、逃げなければならない人達がたくさんいたとして、地平線の彼方まで逃げてその先に逃亡者の集落をつくろうとしたとする。その時にどういった類の想像力が、集落を実現させ得るのだろうか。その世界では生きることができなかった者たち、「逃亡者達の集落」である。

その集落の実現は、おそらくフィクショナルな物語を全員で共有する事によって初めて可能になるのではないだろうか。それは一つの集落を何もないところから、新たにもう一つの現実を、世界を作り上げる駆動力になりえる物語である。きっと神話の如く荒唐無稽な、だからこそ強い力を持ち得る「虚構が支える現実」である。どの国にも建国神話があるように、それがなければ革命の物語があるように、集団の根幹は現実に比肩しうるリアリティを伴った虚構によって支えられている。逆に言えば、集団に共有された幻想は現実として出来するのである。それらは口頭であれ、文体であれ、何らかの記号を媒介させることによってでしか共有されない。

言霊のようなオカルトなものとは別の仕方で、確かに記号としての言語は現実の一部を形づくる。昔から争いの最中にはデマや嘘を流し相手を撹乱させるのは常套手段だし、ミームは正誤を問わず伝達し易いものが一気に広がっていく。だからこそSNSはフェイクニュースで集団を特定の方向に誘導したり、煽動することが可能である。SNSは長い文章を読み書きすることを前提としていないので、現実の詳細なディティールを一切カットする。それが一種の分かり易さとなって特定の集団に広がり、行動を誘導する。これらも確かに「現実を作った」ことになるのだろうが、それらは発信者、受信者双方がディティールを意図的にカットし事実を歪曲することで新たな現実を上書きしている。

逃亡者たちが集落を作る際の構想には現実に比肩しうるリアリティを担保するためのディティールが不可欠で、それはSNSのフェイクニュースやデマやナショナリズム、イデオロギーが作り出す平坦な「現実」とはディティールというものの扱いを巡って大きく異なる。何も一から十まで建物の形や素材、配置が決まっている都市計画のことを「ディティール」といっているのではない。その想像力自体が手触りを伴った物質のごとく感じられ、重さや質感までも存在する様子を指して「ディティール」と呼んでいるのである。

何かを飲み込み押しつぶす力は画一的で平坦である。飲み込む対象を選ばない。それはそこにある物すべてを飲み込む暴力の謂いであり、それを跳ね返し得るのはディティールを伴った想像力である。これから先、私たちは幾人かの逃亡者たちと出会う事になるだろうし、私たち自身がそうなるのかも知れない。

「こんなところにまで人は住まなくてはならないのかと思われるような場所に、驚くべき集落がある。おそらく、それらの集落の大半は、なんらかのかたちで逃げてきた人びとの手によって築かれたにちがいない。こうした推測が正しければ、撤退と遁走は、人間のきわめて重要な局面、いわば哲学の深化される局面であるといわざるをえない。」(集落の教え100 原広司 彰国社)