先日、ギャラリーノマルで山田千尋の個展「BABY」を観た。とても良い展示だったので、レビューを記しておきたい。
山田千尋の絵画作品のモチーフは主にSNS上の画像が使用されている。馬の一部、オレンジ、爪に乗る小さなカメレオンのようなペット、それら描かれる絵の内容に共通項やテーマといったものは特に見当たらない。強いて言うなら山田千尋の好みやその時の気分、というのが緩いくくりなのだろうか。それらは非常に散文的に見える。
描かれている内容が作家の好みや気分に準拠し、そこに取りたてて見るべき繋がりや意味が探せないのだとすれば、我々が視るべきは絵画の内容ではなく形式性、フォーマットの方だろう。
そのフォーマットの特徴の一つとして挙げられるのが、同じモチーフを繰り返し描きその過程をすべて作品として提示するというスタイルである。一つのモチーフを上手く描く為に、複数の習作が作られるということは多々ある。しかしその場合、習作は人の眼には触れないことが多いし、習作と作品は同列のクオリティとは見做されない。しかし、山本千尋の展示作品では最初と最後に描かれた作品を等価に扱っている。それに最初に描かれた作品には戸惑いながら絵画と対話した痕跡が、枚数を重ねた作品には習熟が見られ、それぞれ違った魅力を備えている。なによりドローイング的なアプローチで描かれているので、モダニズム的な上手い下手という基準はこの場合さして重要ではない。それよりは、作品に醸し出されている描かれた時の山本千尋の気分に同調できるかどうかで好み(評価)は分かれるだろう。そうであれば尚更、描かれているもの、絵画の内容に意味は無い。では、私たちはいったい何を見ているのだろうか。
私たちは何度も繰り返されるモチーフに、その都度描き出される山田千尋の「経験」の過程を見ているのだ。それらは同じモチーフ、同じ構図だが細部が微妙に異なり、その差異には描いた順番による時間差やある種の遅延が内包されている。美術史家、美術評論家の伊藤俊治氏は2018年に「私たちが無意識に前提としている『経験』ということの意味がここ10年ほどの間に大きく変わってしまったのではないだろうか。その大きな要因の一つは広範に浸透するメディアやテクノロジーの問題だろう。その速度が私たちの内面の奥行きや深みを吸い取ってしまった。人間の内面はある種の時間差や遅延によりもたらされるものだが、そうしたプロセスが無効になり、怒りや哀しみの感情も、恋愛や追悼の思いも何か薄っぺらで味わいのないものになってしまった。すべてにおいてそうした経験の変質が進んでしまった世界において、アートはどのようなスタンスを取りうるのだろうか。」と問題提起している。
山田千尋の作品の形式性に内包されている時間差や遅延がもたらすものが「内面」であるが、伊藤氏がこの十数年で内面の奥行や深みを吸い取ってしまったというSNSをモチーフとして扱い、しかし微細な内面によって支えられた「経験」が逆説的に描き出されている山田千尋の絵画から感じられるリアリティは興味深い。伊藤氏の著作「ジオラマ論」(1986年リブロポート)は19世紀の産業革命によってもたらされたそれまでの時代から変質していく人々の「イメージ空間」の特質を巡るリアリティを描き出しているが、山田千尋の作品にも同質のものを感じる。今まさに、(伊藤氏の言葉を借りれば)メディアやテクノロジーによって変質されゆく人間の「イメージ空間」が同じモチーフを繰り返し何枚も描く、という形式性に乗って描き出されている。同じ画像が複数枚等価値で並列して提示される、というのはデバイス毎に同じ画像を並べて眺めているときの経験に似ている。
もう一つ、そのフォーマットの特徴に挙げられるのが、中空を漂うような絵具の薄い膜である。
作品に使用されている油絵具は薄く薄く引き伸ばされ、向こう側が透けて見えている。とても軽やかな色調で、作品によっては使われている色味同士が近く、中にはそのせいで何を描いているのか判然としないものもある。
もともと油絵具はとても透明性の高い絵の具である。古典技法ではその透明性を活かし、何層もの透明な絵具の膜を重ねることで空間の奥行を作り出した。それは奥行を「表現する」というものよりは、薄く色のついた透明の膜を何枚も重ねるという工程を踏むことによって生じる光の屈折と透過を利用した物質的、視覚的な効果である。例えば一つの人物を描こうとした場合、人物のハイライトにあたる部分、つまりより骨格や筋肉など物質を強く感じる部分にエッグテンペラのような不透明な絵具を置き、陰影や空間にあたる部分を透明な油絵具の薄い層を重ねることで表現する。すると沈み込むような深い空間が現れるのだ。グレーズと呼ばれる技法である。絵具の層を重ねれば重ねるほど物質的、視覚的に空間は深まり、現実世界の空気の層の重なり(遠くのものは掠れて見える)と相似しているであろうこの油彩の性質には、我々の視覚、視ることの構造それ自体が仮託されている。
山田千尋の作品は、まるでその絵具の層に仮託された薄い空間を膜として一枚だけ抜き取り、パネルの上に張り付けているようだ。この薄い膜は独特の質感を持っている。一般的に絵画とは、絵具の厚みや筆跡による画肌の凹凸が示す通り三次元に物質として存在する。しかし、絵画として「描かれたもの」は網膜に二次元的イメージとして結晶する。一つの絵画を観る者は、物質としての絵画とイメージとしての絵画に分裂しながら揺れるそれらを同時に見ることとなる。絵画は三次元と二次元を往還するメディアだ、と言い換えてもいい。山田千尋の作品が持つこの薄い膜は、絵画が三次元と二次元の狭間を通り過ぎようとするその瞬間を捉え固定したような現実離れした美しさを持つ。
神聖ささえ感じ取れそうなその膜の薄さ、消えてしまいそうな儚い膜が持つ形式性、フォーマットは、しかしどこかアップされては日々埋もれていくSNSの画像の即物性、頼りなさともリンクする。強弱を感じ取りにくいリズムで平坦に塗られ、空間的な奥行きと重量が削ぎ落とされている画面も、取り扱われているモチーフ以上にネットに漂う情報としての画像の質感を観る者に連想させる。
山田千尋の絵画の形式性、フォーマットはSNSやネット上に漂う画像のそれと同型的だ。加えて、見知らぬ人がアップした画像を親密さを感じさせるドローイングのような描き方をすることで、遠さと近さが同居するような独特な距離感の絵画が生み出されている。SNSの画像はそれをアップした人の手を離れ独り歩きし、ある種のイメージとしてネット上を漂っている。絵画もまたイメージなので、山田千尋の作品は「イメージのイメージ」ということができるだろう。「イメージのイメージ」を描くという行為は、例え好みや気分でモチーフを選んでいても、どこか俯瞰的な他人事のような客観性を絵画に纏わせる。
おそらく、山田千尋は自身のこれらの形式性、フォーマットに無自覚だろう。十代の頃からSNSに触れてきたであろう人間にとって、それを自覚することは鏡のない世界で自身の姿を見ることのように難しい。ただ、無自覚な人間の中からこのような形式が立ち現れてきたということが、我々にとっての現実の認識が拡張された事実を示しているのである。


