我々が生活している時間と場所は、意味によって切り取られている。あるいは、意味に沿って並べられているとも言えるだろう。日々の我々の行動には目的があり、だからこそ意味も生じる。たまに頭をからっぽにするという理由で散歩など目的なく行動することはあるが、そういった無目的な部分が生活の中で多くなりすぎると「生きる事」自体が成り立たなくなってしまう。
これが単独での行動でなく複数人での身体や言語を含むコミュニケーションまで範囲を拡げて考えると、さらに複雑になっていく。「無意味」である身振りや発声は互いの解釈や意思疎通を阻害し、誤解や衝突といったノイズに成り兼ねない。ある種の同意や取り決めがないと身振りを通した意思疎通は成立しないし、どんな言語も文法構造を無視してテキストの意味は成立しない。このように我々の日常風景には、多くの意味がついて回る。
では、意味から切り離された、意味の外側を見せるような光景は存在しうるのだろうか。意味に縛られた我々に、その光景を覗き見る事は可能だろうか。
milk&honeyによって企画された6人のグループ展「Mellow mere code」は狭い空間に非常に多くの作品が展示され、展示空間の壁が上から下まで作品で埋め尽くされている。展示は数点の立体作品と数え切れない小さな絵画、一部ファイルに入ったドローイングやグッズで構成されている。またこの展示では6人の作家同士の作品の境界も、余白となるスペースは設けず隣り合ったままの状態で境界が感じ取りにくい。この境界がはっきりしないままの切り替りは展示作品同士の繋がりにシームレスな曖昧さを生み出している。特にギャラリーの一番大きく広い壁には未塵子と(Lemon-2℃)の作品が入り混じるように架けられており、どの作品がどちらの作家の作品なのか少し見ただけでは分かりにくい。
この「シームレスな曖昧さ」があるため、本来展示空間に存在するはずの中心となる視点や、鑑賞の仕方に規則となるある種の拘束は感じられにくく、また感じたとしてもとても希薄である。中心が無い、という展示構成のため、自然と「周辺」と「余白」も無くなり、どこから見始めても良いし、どこで見終えても良いという出入り自由な緩い円環が形成されている。これは見始める場所を変えれば、初回の鑑賞とそれ以降の鑑賞で異なった視覚を経験、体験することができるという事だ。見方を変えることで1回目の鑑賞とは異なる印象を感じる作品が複数あった。例えば1回目の鑑賞では入り口付近の作品から右回りに順序良く見て行き最初の地点に戻ってくることもでき、2回目ではランダムに見て回りながら、足元に置かれたドローイングの入れられたファイルや台の上のグッズを手に取るといった鑑賞の仕方をすることもできる。この事は通常の順序や流れに沿って見ていく展示とは異なる複雑さを生み出しているように感じる。また、数多くの平面作品の奥行きを感じる絵画空間の中に不意に現れるsakane yukieの淡く硬質な質感の陶芸作品も、二次元と三次元の視覚の切り替わりを作り出すきっかけとして機能しており、展示空間をより複雑な視覚的体験にしている。
一方で、この複雑さはノイズのようにも感じられた。今回の展示では作品点数が多く隣り合った作品同士の距離が異常に近いため、それらが互いに干渉し合って雑多なノイズが多い。そうであるために離れて見た時、例えば壁一面を一つの画像として捉えた時、一つ一つの作品のテーマやモチーフは数量的に我々の認知の限界の外側に出てしまう事になり意味が薄れる。簡単に言うと、壁一面で見ようとすると数が多すぎるため1枚の作品ごとに異なるテーマやモチーフが読み込めなくなってしまうのだ。通常、展示におけるノイズは回避されるべきものである。落ち着いて1枚の絵画作品に没入出来ないということが最大の理由だ。しかし、各作品のテーマやモチーフが仮に展示の「内面」だとすると、今回はそのノイズが展示全体に「外殻」とでも呼びたくなるようなもう一つの見え方を提供しており、肯定的に機能している部分があるように思えた。
今回展示されてる作品群に、一貫して見られるような文脈や制約・論理性は見られない。ただ、極端に近接した作品同士がそういった非意味と呼びうるような接続の仕方をされながら、もしくは切断されながら生み出すノイズがこの展示において重要な要素になっていると言うことは出来ないだろうか。それらは複数の主題、事象が文脈を欠いた状態での唐突な結合や衝突として提示されるため、思いがけない機知を含んでいる。(未塵子と(Lemon-2℃)の対面に展示された港美静の空間的拡がりのあるドローイングと、さとみのりかずの心象風景を思わせるモチーフのはっきりした絵画の並びもそれを助長している。)
そしてその不安定さは、どこか主語や述語を省略された言語の状態を思い起こさせる。主語と述語は言葉にとって大事な要素ではあるが必ずしもこの2つが揃っていないと成り立たないというわけではない。例えば「青い色の絵が多く並べられた展示」というような述語がない文でも、題目提示のみの文とはなるが成立しないわけではない。ただ、この場合は述語によって何らかの陳述をされることになる主語もないため、何か他の部分で補われないと何を記述しているのか分からなくなってしまう。そのため単独で自存しているとは言い難い状態かもしれない。しかしだからこそ、言語においてはその曖昧な部分を使って行間を読ませたり、また含意を持たせたりといった事が可能になる。
数多くの作品が架けられた壁一面を1つの画像と捉えた時、その中の1枚の絵画作品が雑多な中に埋もれ意味が薄れる。意味を失いつつ単なる「画像」へと近づく時、それは題目提示的になり、「述語がない」状態に近づくとは言えないだろうか。そうなると何を記述しているのか分からなくなってしまう為、「(分脈を)補うための他の部分」が必要になるわけだが、その「補うための他の部分」がすぐ近くの隣り合ったもう一つの絵画作品である、とは言えないだろうか。無論、その際の接続は鑑賞者の恣意的な接続である。繰り返しになるが、作品同士の繋がりは、複数の主題、事象が文脈を欠いた状態で提示されている。だから鑑賞者が恣意的に作品同士を接続し、意味を補完しようとしても上手くいかず衝突や切断も起こり得る。それがこの展示における「ノイズ」の見え方である。マクロとミクロの視点を切り替えた時、見えるものが変わり全体の意味が揺らぐ。
意味を補うために隣の絵画作品と接続されつつ、隣の(または上下の)作品の意味を補完したり、衝突する事になる展示。そこでは作品1つ1つの役割や位置付けは固定されない。
今回の展示は意味で切り取られた日常、社会(それはアートも含む)と密接に関連しながら、それとは異なった前提を採用し、別の存在を示すため作り出され提示された(もう一つの)アート、という様相の展示であった。加えて、展示作品には暗いブルーや薄いピンク、淡いイエローが多く使われている展示でもあった。改めて会場の全体を見渡した時、それは意味を持たない夜明け前の空の色=メロウな暗い青、である事に気付く。






