マウリツィオ・カテランというアーティストのバナナを壁にテープで貼りつけた「Comedian」という作品が、ニューヨークサザビーズのオークションで9.6億円(手数料込)で競り落とされた。「美術手帖:カテランの“バナナ”が約9.6億円で落札。中国コレクターの手に」
これが方々で話題になっているのだが、この作品は本物のバナナを使っており、(仕様書で展示方法やバナナの形状や熟れ具合に細かく指定があるものの)基本的にはそれをダクトテープで壁に貼っただけのものである。バナナは当然生ものなので2~3日に1回交換が必要だ。これに対し、SNSでは「こんなものはアートではない」という方々と「アートの革命だ」という方々にどうやら分かれているらしい。
この「Comedian」という作品を簡単に説明すると、タイトル通りに「大金持ちはバナナ1本の価格なんて知らない」というブラック・ジョークが中心に据えられており、だから少々高くても大金持ちは買うだろ笑、という作品である。2019年制作のこの作品は、その年のバーゼル・マイアミで当時のレートで1600万円で売却されている。冗談の通り、大金持ちはバナナの価格を知らなかったのである。それから5年後、9.6億円で競り落とされていることから推察するに、やはり大金持ちはバナナの価格はご存じないようだ。
本来はこのように高額で売買されるバナナを眺めながら周囲も冗談を言い合う為の作品のはずなので、内容や経緯を含め説明するのは非常に「野暮」だ。しかしながら、今回はさらに一歩踏み込んで「ではこの作品がなぜアートなのか」まで私見を述べたいと思う。
ある作品がハイ・アートとして流通、認知されるためにはその「作品」の内容以外にもいくつか条件がある。制度や形式面での例を一部挙げると、権威や名のあるギャラリーで取り扱われていること、実際にアートと呼ぶにふさわしい価格でその「作品」が売却されること等が挙げられる。2019年にこの作品を販売していたのは世界にいくつかあるメガギャラリーの一つ、ペロタンである。メガギャラリーとは大企業並みの資本力を背景に国際的なネットワークと影響力をもった文字通りの大型ギャラリーで、中でもペロタンはプライマリーしか扱わない。日本人では村上隆やタカノ綾の作品がその取り扱いとなっている。展示される作品は手頃なものでも1000万円前後の価格だろう。
私は2024年10月にアジアで最も歴史を持つアートフェア、アート台北でペロタンのブースに展示されている複数の作品を観たが、押しとアクの強い台湾のアートフェアで、そこだけまるで美術館での展示のようなクオリティと佇まいだった。特に私には初見のリー・ベーのクラッシックな炭の作品は、息をのむほどすばらしかった。他にもジョルジュ・マチューの作品がVIPプレビューの時点で数枚購入されており、価格はそれぞれ2000~2500万円であった。少し話が逸れたが、カテランのバナナが2019年の時点で特別高価なわけではないことはお分かりいただけるだろう。
「大金持ちはバナナ1本の価格を知らないからどれだけ高価でも買う」という記述と「1600万円という価格は高価ではない」という記述は、同一物に対しての説明として矛盾する。その矛盾がもう一つのこの作品を理解する手がかりである。
マウリツィオ・カテランは世界各地の美術館に作品が収蔵されるなど非常に実績のあるアーティストである。代表作には前述のギャラリーのオーナー、エマニエル・ペロタン氏を今回と同じようにダクトテープで壁に貼り付けた「ある完璧な一日」という作品がある。(ペロタン氏に卑猥なウサギの着ぐるみを着せた「Errotin, le vrai Lapin」もあるが今は置こう。)この作品で使用されているダクトテープは、今回バナナを壁に貼り付けているダクトテープと同じものだ。アートの知識がある人間なら、テープを見て「Comedian」の背景には「ある完璧な一日」があると推察することができる。バナナにどれほどアートとしての中身が無くても、形式上カテランの過去の作品と繋がっているという事だ。加えて、彼はバナナにエディションを設け、3つ制作している。作品がハイ・アートと認識されることを補助する条件に、作品が過去作と繋がりを感じさせるものであること、真作であることを保証する証明書が発行されている事などがあり、これらはその条件を満たしている。
カテランの実績とアートとしての諸形式がハイ・アートとしての価格を保証しているという訳だが、モノが単なるバナナであるだけに中々納得できない。つまり、形式上や売買実績上は間違いなくハイ・アートのそれであるのだが、冷静に見るとやはりただのバナナである。どういう事かというと、作品がアートとバナナの間で分裂しており、その間で決定不可能性によって宙吊りにされている様子が、やはりアートなのだ、という否定神学的ロジックに支えられた作品である、ということになる。もう少し詳しく説明すると「アートとしての内容が全く欠如しているバナナ」をアート作品の中心に据えることで、その「欠如」との関係でアートのシステムを論じたり、個別の作品をその中に位置付けたりすることが可能になる、というポスト構造主義が得意とした古風な否定神学的ロジックが採用されているのである。
この作品をSNSで言われているように「アートの革命だ」という事には私は異議がある。この作品を専門家は既視感を持ってデュシャンの「泉」と同じ種類のカテゴリーに分類するだろうし、進歩史観を採用しないコンテンポラリーアートの領域で、そもそも革命的な「歴史が変わる瞬間」など訪れようがあるのだろうか。革命とは近代の語彙である。半世紀前のバーネット・ニューマンの絵画やアンソニー・カロの彫刻に対してなら辛うじてそういうレトリックは可能かもしれないが、そもそも近代以降のアート/芸術に本質や中心性は皆無である。実際に、例えば2024年5月のエニエス・ベーでのやんツーあたりの展示と比べるとどうしても手際に古さを感じる。しかし、「ある完璧な一日」が96年の作品であることを考えるとそれは仕方のない事でもあるし、それ以上にカテランの作品においては手法が古い、というよりは、もはや我々がお手本にすべきマスターピース、古典としてあるのである。あるいは、この作品は現状のアートを巡るある種の文化表象の一部である、ということも可能だろう。
ただ、一方でこの作品は常に単なる冗談として存在する。そうである以上、「9億円でバナナが売れたらしいね」と振られたら、何か少し知的さを感じさせる冗談を交えて返しながら、2人で意味ありげに目配せしてシャンパンやらワインやらのグラスを合わせるのが、最も洗練された返答になるだろう。それは現代的価値観からすると「洗練」には程遠く見える行いかもしれない。しかし、これは皮肉でも冗談でもない。