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青いたこ焼きに著作権はあるのか? 【入門編】

現代美術作家、南村杞憂の「青いたこ焼き」、通称「地球焼き」はアート作品と言えるのでしょうか?もし「青いたこ焼き」が作品なら、そのたこ焼きに著作権は生じるのでしょうか。今回はそれらについて、出来るだけ平易な言葉を選んで解説したいと思います。

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まず、「たこ焼き」がアート作品ってどういうことだと思われる方も多いかと思います。我々が小学校の図画工作、中、高校の美術の授業を通して教わった「美術」というものは、大半が絵画や彫刻、立体物でした。そしてそれらの多くは「美しい」ものであったり、技術的に何かしら見るべきところがあり、少なからず観た人に「感動」を与えるような作品だったかと思います。これらの作品の背景には、欧米の伝統的な美的基準、「崇高性」をキーに美的判断を行う基準が存在します。戦後の日本ではこれらの価値基準がアメリカ経由で学校教育に持ち込まれ、我々は少なからずこの美的基準の影響を受けています。だから「たこ焼き」が作品だと言われると戸惑う感覚があるのです。

加えて、そもそも食べ物には著作権は発生しません。もしそれらに著作権が発生すれば縁日で売られる林檎飴やたい焼きは最初にそれらを売り始めたお店でしか販売できないことになります。私の記憶では「青い林檎飴」はおよそ半世紀前には夜店で売られていたと思います。著作権が発生するものは、文芸、学術、美術、音楽の範囲に属するものに限定されます。

では単なる「食べ物」に見える南村杞憂の「地球焼き」は、どういった理路を辿れば「アート作品」になるのでしょうか。その問いへの答えは90年代に前述のアートの価値観、美的基準を一変させた、リレーショナル・アートと呼ばれる作品群を見ていくことで浮かび上がります。

まずはこのジャンルに分類される最も有名なアーティスト、リクリット・ティラバーニャ(Rirkrit Tiravanija, 1961~)を南村杞憂の「地球焼き」と関連させる形で紹介します。

ティラバーニャの最も有名な初期作品(1990年代)は、展示空間でタイ料理(彼はタイのアーティストである)を鑑賞者に振る舞うというものです。それらは彫刻、インスタレーション、パフォーマンスといったどの分類にも当てはまりはしません。そもそも「作品」と呼ばれる物質がそこにはありません。彼はそこにやってきた観客にタイ料理を振る舞い、その場に偶然を含んだ思い掛けない「関係性」を作り出し、その経過を含め作品としています。グローバル化と高速化が急速に進みつつあった90年代、そういったある種の遅延や迂回を含んだコミュニケーションが社会に間隙を生み、我々の日常、コミュニケーションを豊かにするための小さな革命を起こすという今思えば牧歌的な思想がありました。彼の作品は饗宴、料理、読書、音楽鑑賞をするための舞台や空間の形を取ることが多いです。それらはそこで生み出される偶然の「関係性」を基点に、我々が生活や社会に肯定的に関わってゆくための構築物であり彼の作品の核となっています。また一方で、「アートの作品を本当に鑑賞しに来ている人は少ない、みんなパーティー目当てに来てるよね」という当時のアート(とそれに付随するレセプションやパーティ)への皮肉めいたメッセージも込められていて、それまでの美術作品には無かったスタンス自体の軽妙さのようなものも作品に表れています。

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南村杞憂の「地球焼き」もこの先行形式を踏襲しています。彼女は「地球焼き」そのものを販売し作品としているわけではありません。それをパーティーで知人、友人、観客に振る舞い、そこに資本主義経済の中での物の売買、販売者と顧客の関係では生まれ得ない豊かな「関係性」をコミュニティ内に築いていくことで作品としているのです。それは資本主義経済の中で重視される利益中心の価値や関係、意味合いを軽やかに脱臼し転倒させてみせているということです。南村が重視する「関係性」は速やかな金銭的利益を生むことには直結せず、むしろビジネスには不要とされるものばかりです。それは現状の社会的関係性に対して軽やかな批評であり、SNSで拡散されていくその様子は現状のシステムに依拠しながら行われる意義申し立てでもあるのです。SNSの中に拡散される軽やかなイメージの連鎖と鋭い批評性とのギャップが思わぬ機知を生み、それらを含めて彼女の作品と言えます。SNSで拡散される、注目されるのは、そのギャップ(=作品そのもの)が生み出す洗練された「アテンションの奪い方」の手法に依るものです。「地球焼き」はそれらの目には見えない作品の本質が現実世界に落とした影、と言うことができます。ゆえに彼女の「地球焼き」はアート作品であり、そこには著作権も発生します。

もう一つ、現代アートと著作権の関係を理解しやすくなる作品としてフェリックス・ゴンザレス・トレス(Felix Gonzalez-Torres,1957~1996)の「無題(ラスト・ライト)」を紹介します。この作品は店頭で販売されている普通の電球複数から成り、それをどのように展示するかは相手に委ねられます。「委ねる」という態度は、その相手を対等な存在として認め、信頼することでしか成立し得ません。作家一人では完成しない作品を相手に預ける「関係性」が作品の本質なのです。このライトは既製品で、工業製品にも著作権は成立しませんが「無題(ラスト・ライト)」には著作権が成立します。

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どちらの作品も20世紀末の作品です。私たちは絵画や彫刻だけがアート作品ではないという著作権についての認識を、改めて再確認しなければならないのではないでしょうか。(そうでなければマウリツィオ・カテランのバナナはどうなってしまうのでしょうか。)

ティラバーニャの作品にタイ料理が使用され著作権が発生するからと言って、レストランでタイ料理が出せなくなるわけではありません。トレスの作品に著作権が発生するからといって、工場で電球が製造できなくなるわけではありません。同様に、南村の作品も著作権で保護されるからといって他の誰かが「青いたこ焼き」を作れなくなるわけではないのです。しかし、ある企業がその「地球焼き」「ガイア焼き」などの名称を含むSNSでの「洗練されたアテンションの奪い方」及び、作品・商品の完成度としての「パッケージ」、つまり「青いたこ焼き」の食べ物以外の部分を盗み販売しようとした場合はその著作権により保護されるのです。南村杞憂はアーティストであり、著作権は彼女の作家活動を「守る」ために存在します。彼女は「青いたこ焼き」で洗練されたパッケージ、イメージを提示し、それがSNSで注目を集めました。それは彼女の作品そのものでもあり、そのイメージを盗用し企業が利益を上げる事は許されません。

青いたこ焼きに著作権はあるのか?【ちょい難版】

エドモンド・バーグによって「崇高と美の観念の起源をめぐる哲学的考察」で宣明された「崇高性」という概念を美的判断力の主要な基準として、エマニュエル・カントが「判断力批判」において克明に分析したのが1790年、今から200年以上も前の話である。カント哲学は1950年代のアメリカ抽象表現主義を擁護した批評家クレメント・グリーンバーグの理論的背景でもあったので、今日の美術やアートと呼ばれるものを「感動」や「美しさ」という言葉を使って言い表そうとする人たちは、自覚の有無は置いたとしてもこれらの判断基準の影響を受けている。

小学校の「図画工作」、中学、高校で履修する「美術」は多少の差異はあれど概ねこういった「感動」あるいは「美しい」と表現されるものが価値として設けられ、その背景には前述の伝統的西洋哲学や西洋美学の美的基準が少なからず伏流しているという話である。日本は戦後である1945~2015年までの半世紀をアメリカ型の民主主義的価値観とともに歩み続けてきた。それらの影響が我々の美術やアートを観る際の価値観にも少なからず顕れているのだ。個人の優れた才能が観る人を感動させる美しい作品を作るという物語は、そこに「近代的」とも今では前時代的ともいえる人間の理想像と発展史観が綯い交ぜに顕れている。だからこそその素晴らしい作品は「著作権」によって保護されるべきだという帰結に至る。

前置きが長くなってしまった。現代美術作家、南村杞憂の「青いたこ焼き」、通称「地球焼き」とその著作権についての話である。ここからは出来るだけ平易な言葉を選んで使用しようと思う。

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まず、食べ物には著作権は発生しない。もしそれらに著作権が発生すれば縁日で売られる林檎飴やたい焼きは最初にそれらを売り始めたお店でしか販売できない。「青い林檎飴」は半世紀前には夜店で売られていたと思う。著作権が発生するものは、文芸、学術、美術、音楽の範囲に属するものたちである。

では南村杞憂の「地球焼き」は単なる「食べ物」なのか、それとも「アート作品」なのか。その問いは前提にどういったアート的、美的価値基準を採用するかで答えが変わる。大雑把に言って「感動」や「美しさ」を生み出すものが芸術であるという価値基準は、前述の通り200年前から続く「近代美術」のそれであり、その基準を採用した場合の南村のたこ焼きはただの「たこ焼き」となる。繰り返しになるが、それは小、中、高校の授業、美術教育を通し我々にインストールされている古いながら今も続く美的価値観である。たこ焼きが「作品」であることに違和感を持つ人たちは学校で身に着いたこの価値観に多少なりとも引っ張られている。

現在の「アート」と呼ばれるものの作品の多くはそれら「近代美術」的なものとは異なる価値基準を採用し、それに沿ってプログラムされている。その価値基準とは、1997年に批評家のニコラ・ブリオーが「関係性の美学」を著し、アートワールドの価値観を一変させた、「現代美術」に属する価値観である。この価値観は厳密には70年代、80年代を通して少しずつ兆候は見られるようになり大きく展開を見せたのが90年代だが、それについてはここでは深くは踏み込まない。代わりに、このジャンルに分類される最も有名なアーティスト、リクリット・ティラバーニャ(Rirkrit Tiravanija, 1961~)を南村杞憂の「地球焼き」と関連させる形で紹介したい。

ティラバーニャの最も有名な初期作品(1990年代)は、展示空間でタイ料理(彼はタイのアーティストである)を鑑賞者に振る舞うというものである。それらは彫刻、インスタレーション、パフォーマンスといったどの分類にも当てはまらない。そもそも「作品」と呼ばれる物質がそこにはない。彼はそこにやってきた観客にタイ料理を振る舞い、その場に偶然を含んだ思い掛けない「関係性」を作り出しているのである。グローバル化と高速化が進みつつあった90年代、そういったある種の遅延や迂回を含んだコミュニケーションが社会に間隙を生み、我々の日常、コミュニケーションを豊かにするための小さな革命を起こすという今思えば牧歌的な思想があった。彼の作品は饗宴、料理、読書、音楽鑑賞をするための舞台や空間の形を取ることが多い。それらはそこで生み出される偶然の「関係性」を基点に、我々が生活や社会に肯定的に関わってゆくための構築物であり彼の作品の核となっている。また一方で、「アートの作品を本当に鑑賞しに来ている人は少ない、みんなパーティー目当てに来てるよね」という当時のアート(とそれに付随するレセプションやパーティ)への皮肉めいたメッセージも込められており、それまでの美術作品には無かったスタンス自体の軽妙さのようなものも作品に表れている。

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南村杞憂の「地球焼き」もこの先行形式を踏襲している。彼女は「地球焼き」そのものを販売しているわけではない。それをパーティーで知人、友人、観客に振る舞い、そこに資本主義経済の中での物の売買、販売者と顧客の関係では生まれ得ない豊かな「関係性」をコミュニティ内に築いていく。いわば資本主義経済の中で重視される利益中心の価値や関係、意味合いを軽やかに脱臼し転倒させてみせるのである。南村が重視する「関係性」は速やかな金銭的利益を生むことには直結せず、むしろビジネスには不要とされるものである。それは現状の社会的関係性に対して軽やかな批評であり、SNSで拡散されていくその様子は現状のシステムに依拠しながら行われる意義申し立てでもある。SNSの中に拡散される軽やかなイメージの連鎖と鋭い批評性とのギャップが思わぬ機知を生み、それらを含めて彼女の作品と言える。SNSで拡散される、注目されるのは、そのギャップ(=作品そのもの)が生み出す洗練された「アテンションの奪い方」の手法に依るものである。「地球焼き」はそれらの目には見えない作品の本質が現実世界に落とした影である。ゆえに彼女の「地球焼き」はアート作品であり、著作権も発生する。

もう一つ、現代アートと著作権の関係を理解しやすくなる作品としてフェリックス・ゴンザレス・トレス(Felix Gonzalez-Torres,1957~1996)の「無題(ラスト・ライト)」を紹介しよう。この作品は店頭で販売されている普通の電球複数から成り、それをどのように展示するかは相手に委ねられる。「委ねる」という態度は、その相手を対等な存在として認め、信頼することでしか成立しえない。作家一人では完成しない作品を相手に預ける「関係性」が作品の本質なのである。このライトは既製品であり、工業製品にも著作権は成立しないが「無題(ラスト・ライト)」には著作権が成立する。

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どちらの作品も20世紀末の作品であり、とうに絵画や彫刻だけがアート作品ではないという著作権についての認識を、我々は再確認しなければならない。(そうでなければマウリツィオ・カテランのバナナはどうなってしまうのか。)

ティラバーニャの作品にタイ料理が使用され著作権が発生するからと言って、レストランでタイ料理が出せなくなるわけではない。トレスの作品に著作権が発生するからといって、工場で電球が製造できなくなるわけではない。同様に、南村の作品も著作権で保護されるからといって他の誰かが「青いたこ焼き」を作れなくなるわけではない。しかし、ある企業がその「地球焼き」「ガイア焼き」などの名称を含むSNSでの「洗練されたアテンションの奪い方」及び、作品・商品の完成度としての「パッケージ」、つまり「青いたこ焼き」の食べ物以外の部分を盗み販売しようとした場合はその著作権により保護される。南村杞憂がアーティストであり、「青いたこ焼き」が彼女の作品だからである。