誰だって前向きな表現というものが見たい。わざわざ時間を裂いてあえて後ろ向きな表現を見たい人などいないだろう。アートに限らず、映画でも音楽でも、どういったジャンルの芸術も、誰も傷つけず、鑑賞した人全てを肯定するような前向きな表現、作品が求められている。今はそういう時代のようだ。
余談だが、90年代後半のマンガや映画は残酷なシーンが多かった。当時ある猟奇殺人を描いたマンガが絵的に残酷すぎて、出版社の役員が印刷機を止め新連載の予定がずれ込んだのは有名な話である。あの頃の過剰に残酷な表現を時代の空気だとするのなら、今はそういったものは直接的に描くことは出来ず、一つ奥の層に埋め込み遠回しに表現しなければならない時代なのだろう。
しかし、世界中を見回せば隠しきれないほどの紛争が前世紀から続いているし、日本でだって様々な事件が日々起こるし、殺人者も実在する。自分でそうはなりたくなくても、どうにもならない巡り合わせや避けようの無い不幸は確かにある。全ての人のありのままを肯定するような「前向きな表現」は、どうしようもない巡り合わせの末に罪科を背負うことになった人達までも、肯定する事が出来るのだろうか。
今から15年程前、海外のある紛争地域から僅かの家財道具だけを持って逃げ出したアーティストが、ギャラリーでその家財道具一式を展示し、住むところも無いので展示期間中その中で寝起きしていたというのを聞いた事がある。それは誰かを楽しませるとか、喜ばせるとかといった「アート」とは完全に異なる、状況が抱え込む「負」と、作品と作者が抱え込む逡巡が持つ「負」が乗算されてかろうじて「正」に転じるような表現であると思う。それは人を傷つけては駄目だとか、戦争は良くないといった説得•説教ではない。そこでは眼前にある「負」が、何とか「正」に転じようとするその事実に、わずかな希望は託され作品という仮象によって提示される。直視する事も勇気がいるであろうその展示は、逆説的にかすかな「希望」の存在の根拠となっている。
しかし、このような種類の作品は、現代の日本で展示可能だろうか。悲しさを正しく受け止めるには感性が必要である。
「全ての人が、ありのままでそこにいていい」という社会を、我々は目指すべきだということは分かっている。しかし、私は未だにその言葉を素直に肯定することが出来ない。
あまり前向きでない言葉を使わない方が良いよ、と人は言う。社会生活や人間関係において、なんか後ろ向きな言葉や吐き捨てるような言葉を使われては確かに良い気はしない。
では表現における「後ろ向き」はどうなんだろうか。個人的にあまり映画は見ないのだが、時間が経っても印象に残っているのは「羊たちの沈黙」のバッファロー・ビルやレクター博士、「エクソシスト」のリーガンのブリッジ階段下り場面など、あまり「前向き」とは言い難いシーンである。そんなん映画の選び方の問題やろ!と言われそうだが、ジャンルが偏らないようには注意している。
ただ、恋愛映画を見た後に「本当の愛って何だろう」とは考えないが、「羊たちの沈黙」を見た後に実際の異常犯罪者ってどんな人間だろうとか、「エクソシスト」の後に悪霊っているんだろうかとかは考えてしまう。
世にオカルトな話は多々あれど、「悪霊憑き」は特に恐ろしい印象がある。幽霊を見た、なら何かの見間違いと言い張れそうだが、生身を伴う「悪霊憑き」は有無を言わさぬリアリティがある。
昔読んだ本には、それは視覚を巡る認識の問題だと書いてあった。我々の五感の中で、視覚だけが対象を二重化する。つまり「視える」ものと「視えない」ものとにである。この二重化があるからこそ、人間を「肉体=視えるもの」「精神=視えないもの」の二元論で捉える事が可能になる。逆に言えば、我々人間が視覚が弱く、代わりに聴覚が発達している生物であったとしたらこの二元論は恐らく成り立たない。ということは当然「精神」と呼んでいる概念は、今とは全く別の形を取る事になる。同時に、「幽霊」なるものも形を変えてしまう。
また、我々は洞窟のような広大な暗闇の中で自分以外の音が無いまま自身の位置が分からなくなると正気を保てない。肉体という感覚器官を失った精神が「幽霊」であるとして、それはどのように周囲を認識し意識を保つのだろうか。
ところで、話はがらっと変わるが私は先日梅田に手袋を買いに行った。フォーマルな男性用の手袋を探していたのだが、そういうのは革製が多く、私はヤギ皮の手袋を手に取ったとき「羊たちの沈黙」を思い出し、ヤギはこんな形にされて恨んでへんのかな、と想像したとき「エクソシスト」を思い出した。ついさっき「それは視覚の問題だ!」と書いたにも関わらずである。こんなところでヤギの恨みを買っても困ると思い、フリースかニットの手袋を改めて探そうと決め、「後ろ向き」な表現の強さを思ったのである。
人はどんな時に自分を取り繕い、演出する必要があるのか。
「仕事」と「恋愛」は最も自らを演出しないといけない場面だろう。という事はそれ以外の、つまり経済的利益と性欲を除外したところで成り立つ人間関係が、互いの「本当の私」を見せ合える関係ではないだろうか。中々タイトな範囲である。現代の日本で、多くの人が最重要事項と考えているのが「仕事」と「恋愛」だろう。それはもはや盲目的な信仰のようだ、と思うことさえある。お金も愛も、疑いが生じた時点で価値は消滅する。疑う事を許されないという点において、それは信仰とは同型である。
「わたしたちの文明がもっとも深くかかわり合っている文化的慣習が宗教でなくなるまで、わたしたちは宗教を客観的に論ずる事ができなかった。宗教の比較研究があらゆる問題点を自由に追求できるようになったのは、今日が初めてである。」ルース•ベネディクト著、米山俊直訳 文化の型 講談社学術文庫
なぜ仕事をするのか、なぜ恋愛をするのかはほぼ問われる事が無い。仕事と恋愛をある特定の時代の特定の社会の「文化的奇習」として距離を持って捉えないとこの種の問いは浮かんでこないのである。当たり前だが、生活のためとか結婚するためとかいう答えは目的と手段が転倒している。
ある文化の中で、制度とは社会の発展を補助する為に建設的に生み出される訳ではない。大抵の場合は内部の軋轢や衝突を回避する為に、取って付けたように生み出されるのである。よってその制度は、人々の不満や欲求には対処できても、必ずしも本質的問題を解決する訳ではない。時代や場所が変われば、その制度は全く問題を解決していないように見えることも多い。大昔の、人身御供や切腹といった制度が何かを解決しただろうか。
だからあなたが、「労働を義務とし、働けない者を甘えだと糾弾し容赦なく切り捨てる。そんなん理不尽じゃ!それでは生きる事の本質を見失うやろ!!」とか「お金がなかったら愛情も無くなるって、そもそも金に価値と意味を与えるのが、すなわち愛やろが!!」と主張しても、おそらく今はまだ壮大な空転を目の当たりにするだけだ。
「仕事」と「恋愛」の関わらないところに本当の私は居る。つまり現在の社会的な価値基準では欠落や未熟と見做されるような部分、例えば雨が降ってるのに公園で遊んで帰ってこないとか、綺麗な服を着て優雅に立ち振る舞うのが嫌いとかいった部分に、肯定的にその人らしさを見出せる関係が「本当の私」を見せ合える関係ではないだろうか。それは友達と呼ぶには熱すぎて、恋人と呼ぶにはぬるすぎる、特別な関係である。
先週の夜、「あざとくて何がわるいの?」を見ていた。この番組はおもしろい。もはや「あざとい」をめぐるコントだ。あと1週間くらい見逃し配信が見れるようなのでぜひ見て欲しい。
様々なパターンの「あざとい」が出てくる中で、特に興味を引かれたのは女優•松本まりかさんのインスタライブであった。
https://twitter.com/i/status/1286880623114637312
まずは配信を開始するもずっとカメラを見つめるだけで約10分間無言である。この10分が酔っているのか、惚けているのか微妙な表情と雰囲気なのだ。こちらは何か見てはいけないものを見ている気になる。その後、唐突にベランダに出て一言「満月見る?」と発する。それだけの動画なのだが、無言の時間の表情や仕草によって(架空の)プライベートな親密さは醸成され、それがピークに達した瞬間に一言だけ満月見る?と発するのである。オチまでの間の取り方、構成がすばらしい。さすが女優さんである。完全にこの番組の構成作家がト書きを作ってインスタライブやったやろ!と指摘があってもおかしくない。
一般的に「あざとかわいい」はキャラであり、「私」が社会的役割を分担した一つの自己である。この番組のようにちょっとしたコントをやってるうちはいい。しかしさらに精緻にあざとかわいいを作り込んでいけば、それにつられ本人の言動は制約され、いつしか枷となる。言動にあらかじめ「正解」が決まっているからだ。
併せて指摘しておきたいのだが、インスタライブにはルールのみがあり、原理がない。「なぜそれを行うのか」は欠落している。だからハイスコアを求め、いかにあざといを演じるかがゲームとして成立する。ちなみにみんなに見て欲しいから、というのは理由にならない。なぜ「見せなければならないのか」が欠けていると言っているのである。
今では多くの人がインスタライブをはじめ、各種SNSでコンテンツを発信する。そこでは「あざとかわいい私」をよく目にする。それを「みんな」に向けた承認欲求の過大な現れだと指摘する声も多い。ちょっとしたコントをやっているうちはそうだろう。しかし、「あざとかわいい」をほぼメインのペルソナにしようと作り込もうとすると事情が変わる。深層的欲求は意図の有無を別に、具体的行為にあらわれる。インスタライブを観ている人は全て「彼ら/彼女ら」つまり三人称である。「私」が大勢の観客に向けて発信している訳だが、そこには「あなた」が欠けている。いかにあざといかハイスコアを競うゲームにあって、恐らく本当の欲求はスコアとは別にある。それは「本当の君はこんなことはしない」と「あなた」に言ってもらうことである。「私だけが、本当のあなたを知っている」あざといを巡るゲームは、この一言を言ってもらうための迂遠な表現なのだと思っている。
人はどのあたりまで自分から乖離した自分を、「私」として認める事ができるのだろうか。例えば、アイドルや俳優など、見た目や仕草が評価に重要な影響を与える仕事をしている人はありのままの自分をさらすことはできない。
だから周囲のイメージ通りの「私」を演じるのだろうけれど、確信を持ってこれは私だ、と本人が言える境界は、元の私からどれくらい離れた位置までなのだろう。仮に全身整形とかしているとかなり「私」の境界が揺らぎそうだと想像してみる。自分の好みからかけ離れた服を毎日着せられるというのも自己認識に影響を与えるだろう。もしかしたら身体そのものよりも服装や立ち振る舞いを強制される方が、自己は揺らぐかもしれない。
それに加えて、最近は各種SNSの発言に気をつけないとすぐに大騒ぎになってしまう。公の場で、有名人はほとんど台本のようなセリフしか発言することができないのではないだろうか。パブリックイメージを「演じている私」のセリフである。
そうなると悲鳴をあげるのは「本来の私」である。これがパブリックイメージとギャップがあればある程「本来の私」はより内面へと押し込まれる。パブリックイメージな私、が「本来の私」を抑圧しているのである。抑圧する私/される私と、私が複数存在する。
ところで日本語では「自分に甘い」や「自己嫌悪」といった言い方でも私が複数に分かれている。「私が複数存在する」というのは単なる言い回しの問題ではなく、言葉を使って我々が自己というものを理解する際の理解の仕方の、根幹に触れる部分だそうである。「パブリックイメージの私」は精緻な作りの仮面であって、人は役割の異なる仮面を複数所有しており、場面に合わせて「本来の私」が仮面を選ぶ。我々は「私が複数存在する」という形でしか自己というものを概念化できず、逆に言うとこれ以外の捉え方ができない。この構造こそが「私」である。多くの言語で「私が複数存在する」という概念化の構造は見られるとジョージ•レイコフとマーク•ジョンソンの「肉中の哲学」(計見一雄訳、哲学書房、2004年)が指摘している。もう少し難しい言い方をすれば「内的生活に関するメタファーシステムの一般構造は、一つの『主体』と一つまたはそれ以上の『自己』の間の根本的な区別の上に基礎を置いている」(統合失調症あるいは精神分裂病 計見一雄、講談社、2004年)ということになる。
自分を精緻に演じている人ほど親しい誰かには「本当の自分」を知って欲しくなるだろう。それは外からは見えない容れ物に入って蓋がされてあり、その蓋をあけ、中身を覗いたならば、それを見たならばもう他人の関係ではいられなくなり、互いの中身を覗き合う関係、というのは、その人がヘテロであればそれは夫婦というもののことだろうとは思う。
和菓子屋さんで葛饅頭を買って食べた。透明の外側で、中にあんこが入っている。さらにその外側が笹の葉で包まれた和菓子は、手に取ると笹のとげとげするような、つんつんするような独特な手触りと清涼な香りが、饅頭のつるっとしたと感触と餡子の甘い匂いと上手く対になっている。
少し前まで、大手スーパーで売られているこの手のお菓子は笹の代わりにそれを模したビニールが巻かれていた。最近はまた本物の葉が巻かれているものも売られているらしい。
誰がその笹の葉を巻くかというのはこの場合重要な問題である。大手スーパーが巻く場合は美味しくなるから以上に「そのほうが売れるから」であって、味も情緒も度外視してビニールを巻いていた時代からのマーケティングのバージョンアップの結果である。一方、和菓子屋さんが巻くのは美味しくなるから以上にそもそも「そういうもの」だからである。前述した笹と饅頭の質感の対比が「味わい」であって、それが無いと「葛饅頭」として成立しない、というのが和菓子屋さんの主張である。少なくともそう思いたい。両者見た目は一緒である。
最近、「現代美術」と「アート」の違いについて考える事が多い。そんなこと今更気にせんでええやろと言われることがほとんどだが、もはや使われることの無くなった「現代美術」と呼ばれたものは和菓子屋さんが巻く「笹の葉」のようであったな、と食べながら懐古してみる。それには非日常な出で立ちでありながらきちんと奥行きも手触りも内面もあり、それを以て日常を包むことで「日常」のパースペクティブも刷新された。
複雑な内面があるから薄暗い精神の裂け目も表現することができた。例えば塩田千春の90年代の浴槽で土を浴びるパフォーマンス、エナメル塗料を頭から浴びるパフォーマンスをおさめた映像作品は、近代というダブルバインドによって身体と精神に生じる病理へ対処する為のネガティブな戦略と捉えることもできるだろう。アートがよく言う「遊び心」や「親しみやすさ」とは無縁の作品である。
時間は不可逆なので、現代美術に回帰したいわけではないのだが、それでも「アート」のフラットさやスマートさ、無理矢理おしゃれに尖らせた感じなどは見ていて中々ぞっとしない。
わかってもらえるだろうか。
大阪の京橋駅のごちゃごちゃしたところでおっさんが「今日は雨が降りそう、今日は雨が降りそう、雨が降りそうやで〜!!」とひたすら連呼していた。それをちょっとあれだからと無視するのではなくそれは近代のダブルバインドに対処する精神のネガティブな戦略の発露であると捉えるのが現代美術のスタンスである。それは確かに古い。90年代末の感覚だ。若い人にはご理解頂けないかもしれない。現在、ダブルバインドは解消された訳ではなくより巧妙に日常の中に隠された。だから昔のような直接的な表現ではそれに対処できないかもしれないが、ではそれをおしゃれに言ってみよう。サニーデイ•サービスで「雨が降りそう」である。
とても良い曲だと思うし、批判がしたいわけでもない。私はサニーデイ・サービスのファンである。同じことを言っているのだが、しかしアートのようにおしゃれである、と言いたいだけだ。
「しかし、銀四郎はたしかな足取りで明景の家に近づくと附近をうかがい、入口の垂れ蓆をまくった。家の内部には、肉の匂いがむせ返るようにみちていた。そこには斉田の妻と二人の男児の遺体がそのままの形で残されていたが、前日の検死の折とは異なって斉田の妻の遺体は原型を失っていた。海草のように頭髪のへばりついた頭部と片足の先端だけがころがっているだけで、その附近にわずかな骨と肉片が散らばっていた。区長は銀四郎の言う通り羆が女の体のみを食いあさっていることを知った。」(吉村昭著「羆嵐」より引用)
恐ろしいやつである。そんな恐ろしい羆を相手に、「銀四郎」は9mほどの距離まで、時には4mまで近づいて至近距離から射つという。当時の銃の性能の問題もあるのだろう。高速で発射される銃弾は、空気抵抗によって軌道が逸れる。現在のライフル銃のように空気抵抗の影響を極力受けぬよう精密加工するには、当時では不可能なのかもしれない。現に昨日の、40mほどの距離での一斉射撃では仕留める事が出来なかった。
本当に9mの距離まで気付かれず近づく事ができるのか。初弾を外せば次の弾をこめる前に羆の一撃に殺される。かといって、ちょっと銃が扱える程度の討伐隊の人数をこれ以上増やしても、羆に翻弄されるだけだ。「銀四郎」に賭けるしかない。この狂暴な羆を斃さない限り、三毛別村落と六線村の住人は、何年もの間身を削るようにして開拓したこの地を捨てなければならないのだ。
今、ラジコを聴きながらこれを書いているが、野田洋次郎氏が「愛にできることはまだあるかい」と歌っている。断言するが、ない。銃弾にのみ、やれる事がある。愛を口にするあなたの、その言葉の軽さよ。あなたがその言葉を口にするには、あと100年待たなければならない。
集団で動く討伐隊の男たちをうまく陽動に使い、羆の注意がそちらに向いている間に背後を取った「銀四郎」。しかし距離は30mほどで、まだ遠い。羆は山の傾斜をのぼってくる討伐隊の動きを見下ろしている。「銀四郎」は丘陵の淵に沿って一歩一歩、距離を詰めていく。彼と一緒に来た案内役の区長は、30mの距離で足が硬直し、雪の上に腰を落とし動けなくなっている。「銀四郎」は銃をかまえた。凍てつく空気をふるわす凄まじい発砲音。
「区長は、茶色い大きな岩石のようなものが二メートルほどはね上がるのをみた。そして重量感にあふれた音を立てて落下すると、周辺の樹木から雪塊が一斉に落ち、あたりは雪片で白く煙った。区長は眼前の光景が何を意味するのかわからなかったが、やった、やったと胸の中で譫言のように叫んでいた。」
しかし、心臓近くに打ち込んだ初弾だけでは倒せない。血のあふれる口から異様な吠え声を出しながら、立ち上がってくる。素早く第二弾を額に射ち込み、ようやく決着である。
これは100年ほど前の話で、それほど大昔の話ではない。およそ人生1個分の時間である。なのに価値観とか、行動原理が現代とは全く異なっていて、目眩を覚えるくらいである。なんか生まれた土地や世代で、価値観があわないというのもわかる気がする。それはよく言われるようなコミュニケーションの問題とは、どうやら根本的に違うようだ。「愛」と「銃弾」にできる事の違いである。
その時、さらに増援が到着し鉄砲も四十丁まで増えていた。しかし、それらを以て斃す事が出来ない狡猾な羆。それを屠る為に招かれた「銀四郎」とはどのような男か。
他人との争いの際は「相手に思いきり殴らせ、顔が血に染まっても薄笑いをうかべながら抵抗もしない。そして相手が疲労すると、それを待っていたように激しい殴打を浴びせる。(中略)漁村に行って、他の地方から流れこんできた二人の遊び人を相手に闘い、両方とも昏倒させて留置所に投げ込まれた事もあった。」「酒を飲んでいる折に銀四郎が突然茶碗をかみくだく習癖のあるのを知っている者も多く、かれらは、銀四郎の顔を思い出すだけでも不快なのだ。」(吉村昭著「羆嵐」より)
しかも聞くところによると「銀四郎」、金に困って銃を質草に村長から金を借り、今は銃がないらしい。借りた金で酒を飲み暮らしている。現在ではマンガや映画でも見かけないキャラクター造形である。
そんな男に羆が猟れるのか。しかし、区長は身銭を切り、銃を請け出すのでなんとしても連れてくるよう村の男に命じる。玄人にしかやれぬ事だという判断である。区長はアイヌの猟師を思い出していた。彼らは単独で羆を追い、仕留める。彼らは他人の同行を極度に嫌い、それは他人に自分の感覚を乱される事無く羆と対峙したいからで、一対一が羆を斃す基本的な条件と考えている節がある。
「銀四郎」に参加を乞えば、高慢な態度で男たちの無能を蔑み、村の結束を乱すかもしれない。しかしその危惧は的外れで、現れた「銀四郎」は区長の前で帽子をとり、災難だったな、と哀悼を示すのである。しかもあれだけ荒れ、酒を飲んでいた男が、羆を追跡する間は飲まない。区長に勧められた一杯に、申し訳程度に少し口をつけただけである。
深夜、最終の防衛線と考えられていた氷橋付近に、羆が現れる。集落に食べ物が無くなった羆は、餌を求めて人間の匂いがする街のほうへ出ようとする。羆は水に濡れるのを嫌うので、街に出るには川を越える唯一の氷橋の上を通るしか無く、村人と警察は何としてもその橋を死守しなければならない。
闇が濃い。最初は、切り株が一つ増えている気がする、という程度の違和感を、何人もの見張りが互いに確認しあい、動いたところで羆だと推定したのである。村人と警察は一斉射撃をする。「銀四郎」はそれを見るだけで加わらない。遠すぎて当たらないと判じたのだ。
羆狩りとは、かなり近い距離で急所に銃弾を撃ち込まないと斃せない。そのためには、羆よりも速く歩き、気取られる前に風下から背後に回らないといけない。
その翌日、集落に入った「銀四郎」は、追跡ののち羆の後ろを取る。同じく集落に入った討伐隊の男たちに羆の注意が向いている間に、背後に回ったのである。羆は山の傾斜を登ってくる村の男たちの動きを見下ろしていた。
がさつな乱暴者がその設定が嘘のような老練さを見せるではないか。駆け引きが実に巧みである。忘れてはいけないのは、「銀四郎」は大正時代に実在した男がモデルで、この物語は実際にあったドキュメンタリーだという事だ。こんな性格の二面性おかしいやろ。これを突出した異能と取るか、極端な精神欠陥と取るかはもはや時代の価値観次第である。100年あれば価値は反転する。なかなか恐ろしい事実であると思う。
先月、令和になってはじめての参議院選挙があった。例によって若者の投票率が低かったそうだ。各メディアはこれについて、若者の政治への関心が低ければ意見が反映されにくくなるとか、本来若者に向け使用されるはずの予算、税金が減ってしまうなど報じている。
これらの報じられ方には二種類の問題がある。
第一に、「民主主義」の意味の捉え方である。基本的な事だが、「民主主義」とは「多数決」の事ではない。
例えば、学校の遠足で、動物園に行くか、水族館に行くかを決めるとする。30人のクラスの内、29人が動物園、1人が水族館に行きたい、と意見が割れ、単純に希望が多い動物園に決まればこれは「多数決」である。一方、29人と1人に分かれ、議論し、1人が「あるとても珍しい魚の産卵が水族館で見られ、それは今の時期しか見れない」と言った事により29人が意見を変え、今回は水族館に行くという事になれば「民主主義」である。
そもそも、「民主主義」の主語は本来マイノリティなので、少数の意見が無視されるのであれば、現状の間接民主主義は健全に機能していない事にはならないだろうか。
第二に、「若者の投票率が上がれば、問題は多少なりとも改善する」という言説の安直さである。仮に若者の意見が反映されるようになったとしても、高齢者や他の年代の方々が生活しにくくなるのであれば、それぞれの立場が入れ替わるだけである。問題は解決していない。それに、大多数の有権者が是とする政治的意見が常に正しいという保証などない。
選挙はより多くの票を獲得した候補者が当選する、という前提なのに「民主主義は多数決ではない」とはどういう事か。この矛盾は、現状の社会システムのバグと言えるかもしれない。
以上から導きだされる結論は、「間接民主主義は再発明されなければならない」となるはずである。
勿論、それはすぐに設計できるものではない。次善の方法は、新制度が作られるまでの間、与党と野党の議席数がおよそ半々となるよう有権者が調整し投票する事である。そうなれば、与党は議論無しでは主張を通せない。それだと手間がかかる、結論がすぐ出ない、という意見もあるだろう。しかし、政治の決断は、100年後の国の存亡に大きく関わる。歴史が示す通り、性急な結論を避けることが最大のリスクヘッジである。民主主義は完璧な政治形態ではないが、多数決よりは遥かにまともである。
しかし、上述のような意見は各メディアからは聞くことはない。これらが余りに自明過ぎるので、あえてみんな口にしないだけだと諸賢よりご指摘があれば、私は自らの不明を恥じる他ないが。
「しかし、かれらの生活は、その地の土壌に仮の根をのばしはじめていたにすぎなかった。植物は、冬の訪れとともに地表から姿を消すが、種子は土の割れ目に入って春の訪れとともに多くの芽を吹き出す。それは、土壌との毎年約束された合意による物だが、かれらはそこまで土の信頼を得るには至ってはいなかった。村落の者たちは、四年以上も前にその地に入植したが、今もって一個の死者も埋葬することをしていなかった。(中略)土との融合は、植物の種子が土に落ちるように死体を土に帰することによって深められる。人間の集落には、家屋、耕地、道とともに死者をおさめた墓石の群が不可欠の物であり、墓所に立てられた卒塔婆や墓石に供えられた香華や家々で行われる死者をいたむ行事が、人々の生活に彩りと陰影をあたえ、死者を包みこんだ土へのつつましい畏敬にもなる。」(吉村昭著「羆嵐」より引用)
厳しい環境の中で、少しずつ収穫を増やし、生活を安定させていく六線沢の集落に、突然、招かれざる客があらわれる。本格的な冬を前に、ねぐらを得る事が出来なかった「穴持たず」の羆である。
現代を生きる我々にとって、クマはどこかかわいらしいイメージがつきまとう。しかし、それは「熊」と「羆」を混同しているからだという。本州に生息する「熊」は大きくても100kg強で、木の実などを常食としている。この大きさなら、全盛期のエメリヤーエンコ•ヒョードルであれば五分で打ち合える。彼のヘビー級では類を見ない踏み込みの早さと強力な連打があれば、いける。対して、「羆」は肉食獣で体も大きく、中でも本作に出てくるものは重量383kg全長3.6mの特大である。あかん、人間では勝てない。
集落を強襲し、人を食い殺した羆に対し、住民は戦々恐々の大騒ぎにになる。すぐに近くの三毛別村落に応援を頼み、いくつかの村田銃と、鍬や鎌をもった男たち50人がやって来た。安堵の空気に包まれる集落にあって、しかし羆は巧みに追撃を躱し、まるで裏を掻くように次の家を襲撃する。羆は獰猛な反面、非常に賢い動物でもあるのだ。追撃する側は、その狡猾さに驚き、また新たに食い殺された仲間の損傷の激しい肉体を眼にし、徐々に恐怖を抱きだす。自分たちに羆を狩る事はできない。こちらが狩られる側だと思い知らされるのである。
作中、ある家が襲われている描写がある。男たちはその家を取り囲んだは良いが、羆がいる中に入って行ける者はいない。かといって、まだ生存者がいるかもしれないのに外から矢鱈滅多に銃撃する事もできない。火をかけ焼き殺すなど以ての外である。どうすれば良いか、気も顛倒した男たちが決められない中、日露戦争で従軍経験のある元一等卒の男が意見を出す。
「まず家の入口附近に五人の銃携行者を散開配置させ、その一人に銃口を空に向けて二発弾丸を発射させる。その発砲音に驚いて羆が戸外にとび出してきたところを、一斉射撃で射殺するのが最善の方法だろう」
男の戦場経験が頼もしすぎる。しかし、ほぼ完璧なこの作戦は、射手の技量の未熟さ、取り囲む男たちの練度の低さにより、失敗してしまう。もうだめだ。鉄砲の扱いに長けた専門のマタギを呼ぶしかない。集団を指揮する区長は、悪名高いマタギの「銀四郎」を呼ぶ決意をするのである。
ところで、やはり草を敷き詰めて作った家では、雪風も、まして羆のような外敵も防ぎきれない。家は強く固い外壁があってはじめて「家」として成り立つ。建築は守るために強くなければならない。
この事件よりおよそ80年後、青森県立近代美術館の建築案コンペで、当時三十歳に満たない藤本壮介氏が「弱い建築」なるものを標榜し、審査員の度肝を抜く事など、この時誰が予想し得ただろう。特に、審査委員長の伊東豊雄氏は1941年生である。建築は、境界は強固なものでなくてはならないと身に染みている世代だろう。「弱い建築」とか「曖昧な境界」とかプレゼンで言われてよく認めたものだと思う。その建築概念の変遷を醸成した80年の「時間」というものを思うと、私は今まで「時間」を、ごく子供らしい仕方でしか理解していなかったのではないか、と思ってしまう。