日本ではアート作品があまり売れないと言われる。事実その通りだという実感があるし、私の周りでも100万を超える金額で売買された作品の買い手は知る限りほとんどが外国人である。
「日本には文化が無い」「現代アートに対しての理解がない」というのは日本のアートマーケットについて語る際の定型句であり、物事の一側面を無難に語ってはいるがもう片方のより重大な側面を見落としている。
もう片方の重大な側面、それはアートと政治、経済を中心とした社会との関係、すなわち産業としてのアートについての認識である。国の経済を含む社会構造がどういった形で成立しているか、という事は文化面と同等、あるいはそれ以上にアートとの親和性に影響する。アートマーケットが成立しやすい国としない国では、明らかに社会構造が異なるのである。
日本では、現代アートは多くの先進国においてパブリック•ディプロマシーであり、同時に国の経済を支える産業の一つでもあるという事はほぼ認識されていない。
前者の代表的な例でいうとドイツで開かれる国際展「ドクメンタ」は第二次世界大戦中、ナチ独裁体制下で当時の前衛的な表現を迫害し否定する為開催された「退廃芸術展」において「ファシズムと芸術破壊の国」のイメージがついたドイツの文化的復権を狙ってのものである。また後者では、パリのルーブル美術館は年間1000万人近くの観光客が訪れ、イタリアのヴェネツィア•ヴィエンナーレでは会期中40万人以上の入場者が訪れる。世界最大のアートフェア、スイスの「アートフェア•バーゼル」では全体で約600億の売上がある。これらの経済効果は計り知れない。
古くからアートシーンを引っ張ってきたヨーロッパでは確かに日本に比べアートを売買する慣習は根付いていると言える。ドイツ、フランクフルトに本店を構えるドイツ銀行は、1979年以来現代アートのコレクションを続け、その数は56000点を超え企業のコレクションとしては最大級の規模となっている。またスイスの金融機関グループUBSも1960年からのコレクションが35000点を超える。それぞれ世界に点在するオフィスにアートコレクションを展示し、前者はフリーズの、後者はバーゼルのアートフェアのメインスポンサーとなっている。日本ではプライベート•バンキングはあまり馴染みが無いが、前述の銀行にとって富裕層の資産運用サービスの一環としての美術品の売買サポートや保険、美術品輸送の手配代行は重要な位置を占める。自身がメインスポンサーになっている巨額のアートマネーが行き交うフェアは重要なビジネスフィールドであり、またスポンサーとして特定のアート作品の「価値」もコントロールしやすい。それらのアート作品を富裕層の顧客にすすめ、数年後には「価値」の上がった作品が不動産投資以上の利益を生む。日本ではまず見られない形のビジネスモデルである。
しかしそれらの「慣習」面以上に、日本の場合国策としての経済政策がアートとの親和性が低い。世界トップの年間売上販売台数を誇るトヨタ自動車のような企業を複数有する日本に於いては、未だ発展途上にあるアートを産業の柱にする為に投資するよりも、今有る製造業中心の経済政策を取った方が他国に対しアドバンテージを発揮できる。今でも(少なくとも)当局にとっての産業の中心は製造業である。
戦後日本における復興と製造業の発展は軌を一にしてきた。日本の経済は製造業によってその発展を支えられてきたのである。
製造業を国の基幹産業にするには技術的なノウハウの蓄積も、多額の先行投資も必要となる。まずはそう難しくないありふれた日用品の製造の自動化から始まり、次いで複雑なパーツを生産する為の工作機械が作られる。その工作機械によってより量産化をはかるための機械が生まれたり、より複雑で精密な製品が作られる。製造業において必須となるものは工場を運営していく為の土地であり、人である。製造業はその土地に根ざした長期的な安定性の中に利益拡大の機会を見つける。製品の価値は(アートとは異なり)あくまで実用性や利便性である。
対して産業としてのアートの価値は、その価値を自身の未来の価値に担保させるという自己完結的な循環の中に置く。そしてその循環構造は金融市場においてもよく見られる。現在、一番儲かるビジネスは金で金を買う事である。上がると予想した通貨を現在の価値で購入するのである。上がると予想した人が多ければ多いほど、価格は跳ね上がる。この構造は産業としてのアートの価値の生成過程と原理的には同じだろう。前述のヨーロッパの銀行がアートマーケットに参入してくる理由も、ここにある。そして投機やその他金融商品は株価の上下や景気の動向といった不確実性の中に利益拡大の機会を見いだす。
これら2つの価値は対照的である。
2000年以降、新自由主義によって押し進められたグローバリズムは、市場の万能性を標榜し経済や産業に対しての規制緩和を押し進め、政府による経済や資本の管理を排そうとした。その結果、旧来以上に金、資本は力を持ち、市場と国家は秩序を持たない奔流の中にその身を投じる事となった。
もはやコントロールが効かない「自由経済」の中にあっても、(論理が矛盾した言い方になるが)それぞれの国家は他国に対してアドバンテージを確保できる産業を保護しつつ、次の時代の主流になる産業の発展に注力しようとする。その中でシンガポールのような新興国、香港、台湾などの特定の地域にとっては多額の設備投資や研究開発費への投資の必要なく、不確実に上下する経済の力をある種のレバレッジのように利用して扱う金額、マーケットを拡大できる現代アートは産業の一つとして魅力的であった事だろう。
対して、日本においては例えバーゼルのアートフェアのように600億円の市場規模になったとしても、製造業によって動く金額とは比べられるものではなく(トヨタ自動車の2015年3月期連結売上高は27.2兆円である。)通常はどうしても経済政策は新自由主義によってもたらされたデフレ圧力から製造業を保護する方向へ働く。新興国の安価な生産力に対抗するためには、先進国の製造業は必ずデフレ圧力にさらされるからだ。
しかし、グローバリゼーションの名の下、世界中に過剰な競争をもたらした新自由主義は2008年のリーマンショックで一定の帰結を見た。当時の米財務長官のポールソンは、市場の自由を積極的に擁護したゴールドマンサックスの出身であったが、その彼が公的資金を投入して回る様子、史上最大の政府による金融介入は新自由主義の終焉の象徴であったように思われる。また、リーマンショックの際に買いに回り、最後に市場を支えたのは共産主義国家の中国である。これらの事からも解るように、新自由主義の言う市場の万能性など(ミクロ経済学の理論上は成立するが)現実には存在しようが無かったのだ。
戦後、東西冷戦下において共産圏に対しての行き過ぎたイデオロギーが「新自由主義」だったのかもしれない。共産主義は財産を共有する事によって平等な社会を目指した。そのような形の経済を否定する為のイデオロギーが「新自由主義」だったとは言えないだろうか。
今から考えると、アート作品でさえも新自由主義に飲み込まれ、グローバリゼーションに追い立てられる姿は幾分滑稽な物でもあった。
経済の背景にある思想、ソフトが変化すれば、それと密接に関係していたアートの価値の成り立ちも変化する。アートフェアで数千万で取引される「アート」がある一方で、日常と呼ばれる範囲の中でやり取りされる現実に根ざしたアートの価値も確かに存在する。その二つの価値の間で実体を持たずにアンビバレンツに揺蕩うものの姿をアートと呼ぶのだとすれば、後者のアートの価値は、実体を持たないアートと現実をつなぐ為の唯一のアンカーなのである。このアンカーが無ければ、現実を離れたアートの価値はバブルのようにどこまでも高騰する。しかし、現実から切り離されたバブル的な価値に対して、我々は果たして「価値」を認めるだろうか。
残念ながら今後、日本において一般にヨーロッパ、アメリカのようなアートマーケットが成立、定着する可能性は低いだろう。アートマーケットを成立させるには、具体的な構造や回路、制度以上に、それに伴う多くの人のより複雑な精神的対応とある程度長期的な運用体験が必要なのである。
もしも日本で現代アートのマーケットを立ち上げようとするのなら、「アートの価値とは何か」という問いに対し、(それが正しい、誤っているという事とは関係がなく)明確な回答を要するだろう。すなわち、ヨーロッパのようにアートは「価値」を自製させるための装置、とするのか、前述のアンカーと例えた現実に根ざした「アート」とするのか。どちらを選択するかにより、その後成立するマーケットの形は異なった物となる。だが、そのことから目をそらし、本質を理解せずに諸外国の成功したアートフェアの形式だけを真似たとしても現代アートのマーケットは成立し得ない。
換言すれば、現在、日本においてアートの価値が不明瞭なのだ。ヨーロッパ、アメリカではアートの価値は経済的価値と学術的価値の二重構造として成り立っている。だからこそ上述のようなアートフェアの展開が可能なのだ。
しかしその不明瞭な部分には、アートに対しアメリカ•ヨーロッパとは別の「価値」を定義できれば、既存とは異なったアートマーケットの成立の可能性が示唆されていることも確かなのである。
それは同時に、戦後日本を支えた経済にまつわる価値観との決別、という事でもあるが。