エドモンド・バーグによって「崇高と美の観念の起源をめぐる哲学的考察」で宣明された「崇高性」という概念を美的判断力の主要な基準として、エマニュエル・カントが「判断力批判」において克明に分析したのが1790年、今から200年以上も前の話である。カント哲学は1950年代のアメリカ抽象表現主義を擁護した批評家クレメント・グリーンバーグの理論的背景でもあったので、今日の美術やアートと呼ばれるものを「感動」や「美しさ」という言葉を使って言い表そうとする人たちは、自覚の有無は置いたとしてもこれらの判断基準の影響を受けている。
小学校の「図画工作」、中学、高校で履修する「美術」は多少の差異はあれど概ねこういった「感動」あるいは「美しい」と表現されるものが価値として設けられ、その背景には前述の伝統的西洋哲学や西洋美学の美的基準が少なからず伏流しているという話である。日本は戦後である1945~2015年までの半世紀をアメリカ型の民主主義的価値観とともに歩み続けてきた。それらの影響が我々の美術やアートを観る際の価値観にも少なからず顕れているのだ。個人の優れた才能が観る人を感動させる美しい作品を作るという物語は、そこに「近代的」とも今では前時代的ともいえる人間の理想像と発展史観が綯い交ぜに顕れている。だからこそその素晴らしい作品は「著作権」によって保護されるべきだという帰結に至る。
前置きが長くなってしまった。現代美術作家、南村杞憂の「青いたこ焼き」、通称「地球焼き」とその著作権についての話である。ここからは出来るだけ平易な言葉を選んで使用しようと思う。

まず、食べ物には著作権は発生しない。もしそれらに著作権が発生すれば縁日で売られる林檎飴やたい焼きは最初にそれらを売り始めたお店でしか販売できない。「青い林檎飴」は半世紀前には夜店で売られていたと思う。著作権が発生するものは、文芸、学術、美術、音楽の範囲に属するものたちである。
では南村杞憂の「地球焼き」は単なる「食べ物」なのか、それとも「アート作品」なのか。その問いは前提にどういったアート的、美的価値基準を採用するかで答えが変わる。大雑把に言って「感動」や「美しさ」を生み出すものが芸術であるという価値基準は、前述の通り200年前から続く「近代美術」のそれであり、その基準を採用した場合の南村のたこ焼きはただの「たこ焼き」となる。繰り返しになるが、それは小、中、高校の授業、美術教育を通し我々にインストールされている古いながら今も続く美的価値観である。たこ焼きが「作品」であることに違和感を持つ人たちは学校で身に着いたこの価値観に多少なりとも引っ張られている。
現在の「アート」と呼ばれるものの作品の多くはそれら「近代美術」的なものとは異なる価値基準を採用し、それに沿ってプログラムされている。その価値基準とは、1997年に批評家のニコラ・ブリオーが「関係性の美学」を著し、アートワールドの価値観を一変させた、「現代美術」に属する価値観である。この価値観は厳密には70年代、80年代を通して少しずつ兆候は見られるようになり大きく展開を見せたのが90年代だが、それについてはここでは深くは踏み込まない。代わりに、このジャンルに分類される最も有名なアーティスト、リクリット・ティラバーニャ(Rirkrit Tiravanija, 1961~)を南村杞憂の「地球焼き」と関連させる形で紹介したい。
ティラバーニャの最も有名な初期作品(1990年代)は、展示空間でタイ料理(彼はタイのアーティストである)を鑑賞者に振る舞うというものである。それらは彫刻、インスタレーション、パフォーマンスといったどの分類にも当てはまらない。そもそも「作品」と呼ばれる物質がそこにはない。彼はそこにやってきた観客にタイ料理を振る舞い、その場に偶然を含んだ思い掛けない「関係性」を作り出しているのである。グローバル化と高速化が進みつつあった90年代、そういったある種の遅延や迂回を含んだコミュニケーションが社会に間隙を生み、我々の日常、コミュニケーションを豊かにするための小さな革命を起こすという今思えば牧歌的な思想があった。彼の作品は饗宴、料理、読書、音楽鑑賞をするための舞台や空間の形を取ることが多い。それらはそこで生み出される偶然の「関係性」を基点に、我々が生活や社会に肯定的に関わってゆくための構築物であり彼の作品の核となっている。また一方で、「アートの作品を本当に鑑賞しに来ている人は少ない、みんなパーティー目当てに来てるよね」という当時のアート(とそれに付随するレセプションやパーティ)への皮肉めいたメッセージも込められており、それまでの美術作品には無かったスタンス自体の軽妙さのようなものも作品に表れている。

南村杞憂の「地球焼き」もこの先行形式を踏襲している。彼女は「地球焼き」そのものを販売しているわけではない。それをパーティーで知人、友人、観客に振る舞い、そこに資本主義経済の中での物の売買、販売者と顧客の関係では生まれ得ない豊かな「関係性」をコミュニティ内に築いていく。いわば資本主義経済の中で重視される利益中心の価値や関係、意味合いを軽やかに脱臼し転倒させてみせるのである。南村が重視する「関係性」は速やかな金銭的利益を生むことには直結せず、むしろビジネスには不要とされるものである。それは現状の社会的関係性に対して軽やかな批評であり、SNSで拡散されていくその様子は現状のシステムに依拠しながら行われる意義申し立てでもある。SNSの中に拡散される軽やかなイメージの連鎖と鋭い批評性とのギャップが思わぬ機知を生み、それらを含めて彼女の作品と言える。SNSで拡散される、注目されるのは、そのギャップ(=作品そのもの)が生み出す洗練された「アテンションの奪い方」の手法に依るものである。「地球焼き」はそれらの目には見えない作品の本質が現実世界に落とした影である。ゆえに彼女の「地球焼き」はアート作品であり、著作権も発生する。
もう一つ、現代アートと著作権の関係を理解しやすくなる作品としてフェリックス・ゴンザレス・トレス(Felix Gonzalez-Torres,1957~1996)の「無題(ラスト・ライト)」を紹介しよう。この作品は店頭で販売されている普通の電球複数から成り、それをどのように展示するかは相手に委ねられる。「委ねる」という態度は、その相手を対等な存在として認め、信頼することでしか成立しえない。作家一人では完成しない作品を相手に預ける「関係性」が作品の本質なのである。このライトは既製品であり、工業製品にも著作権は成立しないが「無題(ラスト・ライト)」には著作権が成立する。

どちらの作品も20世紀末の作品であり、とうに絵画や彫刻だけがアート作品ではないという著作権についての認識を、我々は再確認しなければならない。(そうでなければマウリツィオ・カテランのバナナはどうなってしまうのか。)
ティラバーニャの作品にタイ料理が使用され著作権が発生するからと言って、レストランでタイ料理が出せなくなるわけではない。トレスの作品に著作権が発生するからといって、工場で電球が製造できなくなるわけではない。同様に、南村の作品も著作権で保護されるからといって他の誰かが「青いたこ焼き」を作れなくなるわけではない。しかし、ある企業がその「地球焼き」「ガイア焼き」などの名称を含むSNSでの「洗練されたアテンションの奪い方」及び、作品・商品の完成度としての「パッケージ」、つまり「青いたこ焼き」の食べ物以外の部分を盗み販売しようとした場合はその著作権により保護される。南村杞憂がアーティストであり、「青いたこ焼き」が彼女の作品だからである。
前回も告知しましたが、今月大阪のLADS GALLERYで個展をさせていただきます。
6月14日~19日、私は14、18、19日在廊予定です。
詳細はこちらをご覧ください。
ぜひぜひお立ち寄り下さい!

毎度もう始まっていて申し訳ないのですが、京都のkumagusuku SASで作品を展示中です。
前田大介展「片と痕」3月4~6日、11日~13日、金土日のみオープンです。
時間は11:00~17:00です。
この展覧会は今までにないくらい制作に苦しんだ作品たちが展示されています。
よろしければぜひご高覧ください。
https://kumagusuku.info/sas

近くの二条城がウクライナライティングでした

FACE2022に入選しました。
新宿のSOMPO美術館にて、2/19~展覧会が始まっています。
なんかリテラル過ぎよのう、と思わず反省してしまう作品ですが、お近くの方はぜひご高覧ください。
チケットありますので、言っていただければ郵送します!


もう随分前から高級食パンが人気らしい。私も勧められたり、頂いたりしていくつかの有名店の食パンを食べた。しっとりしていて柔らかく、おいしい。思わず日常の些事一切を忘れるような、食パンなのに甘くて、とても幸福な味である。未だによく行列が出来ているのを見かける。
おいしいのだが、中には甘すぎるくらい甘い物もあり、なんというか、それは小麦の甘さだけではないのである。これ何か入ってるよな?と思い、調べてみると生クリームを入れてる店もあるようだ。バターの香りも強く、味がとてもしっかりしている。「おいしい」というものが分かり易く演出されており、まあこれは人気が出るのもうなずける。おいしい。
ただ、好みの問題かも知れないけど、私はもう少し「水っぽい」というか、もっと味の薄いパンが好きである。そう言ってしまうと誤解されそうなのが、表現の難しいところだ。毎日食べても胸焼けしない、飽きのこないパンが好きなのだ。バターや生クリームよりも、小麦そのもののほのかな甘さを感じながら食べるパンが好きで、こってりした味やはっきりした香りより、食べた後に口や胃がすっきりしているほうがいい。毎日食べる食パンなら尚更である。
大阪のJR鶴橋駅から徒歩3分ほどのところに「パンの森」というパン屋さんがある。昔は御幸森にあったが何年か前に移転した。ローカルな地名ですまない。きちんとした素材を使い、きちんとした手順を踏んで作られた真っ当なパンがとても安くで売られていて私は好きなのだが、失礼ながら最近の高級食パンに押されているようにお見受けする。
なので少しここで宣伝したい。私としては、「パンの森」は美味しいのでもっと繁盛してほしいし、大阪の人はぜひ買いに行って欲しい。安くて美味しいパンを毎日食べる事ができるのは幸運なことだ。私としてはこの幸運を失いたくない。裏通りの小さな店だが、かわいい看板が出ているのですぐ分かるはずだ。
何と言っても食パン一斤280円である。安い。その上ジャムを塗っても美味しいし、トマトで作ったソースを塗っても美味しい。作り立てなので、ついでに鶴橋商店街の八百屋で野菜を買って帰ればサンドイッチにして耳まで食べれる。
例えば、福島パネ•ボルチーニの塩フォカッチャとか、西梅田ブルディガラエクスプレスのカレーパンのような名物的なパンは無い。あれはあれでとてもおいしいけれど、味が濃いので毎日は食べれない。
これはインスタでいいね!なかんじとも、分かり易い「おいしさ」とも違う、もちろんキャピタルな方向とも全く違う。
ただ日常の些事一切を見つめながら、苦いコーヒーと一緒に黙々と食べる、そんな血肉を作る毎日の食べ物の話なのである。
*前回からの続き
「紅葉見に行こうやって誘われたー!!」先日、お昼を食べていた時のことである。一緒に食べていた女の子が突然言った。聞くと、ある男に京都に紅葉を見に行こう、と誘われたらしい。その女の子は見るからに嬉しそうだった。私は、その子自身も好意のある人から誘われたのだと思い、良かったやん、と軽く言ってみた。しかし、その女の子は、「紅葉には一緒に行くけどー、その男からの好意自体はどうかなぁー、あんまりかっこよくはないんよなぁ!京都行ってからその事を相手にゆうわぁ」と言い出したのである。「いや、京都行かんでも先言えるやろ!」と私は言った。
しかし、その女性は次の言葉で、「何を着て行ったら良いと思う?」と言ったのである。完全に舞い上がっている。「知らんわ、何でもええんちゃん?どうせ振るんやろ?」と言いかけて私は、そういえば男同士で、好きな女の子とどっか行きたいなー、どうやって声かけよ?と話になることは多いが、女の子側の話はあまり聞かへんな、と思ったのである。そう考えると非常に興味が湧いたのである。しかもせっかく男に誘われたのに、それを振ろうという見た目普通の女の子である。後学のためにも知っておかねばならない。
「やっぱワンピースやろ!男と二人で出かけるんやったら!」と私は相手に提案してみた。好きな男の前でないと、あんな動きにくい服は着えへんやろ、相手の男を、期待させてめっちゃ空振りさせたろう、と私は考えたのだ。性格の悪いやつだ。するとその子が「せやろ、普段より、女っぽい服にして、期待させてから振りたいんよ!」と力強く乗っかってきた。そして、「靴どうしょうかなー、やっぱ華奢なヒールがいいよなあ、歩きにくいけど、ヒールやと階段なんかで男も手を差し出すよなぁ、車の乗り降りも自然と男がドアを開けて、支えてくれんちゃん!?」と言った。あまりの舞い上がりっぷりに、私は「いやー、スニーカーでええんちゃう?ヒールなあ、まあ確かに道の悪いところやと、まあずっこけかければ支えてくれるかもなぁ、まあ相手次第ちゃうのん?」と言うのが精一杯だった。
二人で京都に出かけ、紅葉ではしゃぎ、普段より親密な雰囲気でその女の子と接し、町家を改装した趣のあるお店で食事をしたぐらいのところで、その男は見事に振られるのである。しかもどうみても、早く好意を告げてほしい、と言っているような女の子に、である。そして女の子は言うのだ。「まさかさぁ!そんな好意を持ってもらってるんやなんて、全然気付かんかったー!!笑。ごめんなぁ!!けどウチよりもっとええ人おるって!!ウチはあんたが思ってるようなんじゃないよー。」そして、別れ際「友達として、あんたのことが大切なん、これからも仲良くしてな。」と言って締めくくりたいらしい。私なら京都に捨てて帰る。
こんな新喜劇みたいなノリで、相手の好意を踏みにじって、許されるのは誰もいない。私は自分が女でなくてよかった、と思った。
*この話は先日自分の身の回りで起こったことを標準語と大阪弁で記述し、比較したものです。同じ日本語なのにキャラクター造形から、登場人物の関係性まで全然違う…
大阪弁は、真実を語るのに向いていない言語ではないかと思った、という話でした。
「紅葉をね、見に行こうと誘われたのよ」先日、お昼を食べていた時のことである。一緒に食べていた女性が突然言ったのである。聞くと、ある男性に京都に紅葉を見に行きませんか、と誘われたらしい。その女性は少し嬉しそうに微笑んでいた。私は、彼女自身も好意のある男性から誘われたのだと思い、良かったじゃないか、と言ってみた。しかし、その女性は、紅葉には一緒に行くが、その男性からの好意は受けられない、京都でその事をきちんと相手に伝えるつもりだ、と言い出したのである。ほう、そんなもんか、難しいもんだと私は思った。
しかし、である。にも、関わらずである。
その女性は次の言葉で、何を着て行こうかしら、と継いだのだから男の私としてはやってられない。男性同士の内輪話で、意中の女性を誘うにはどうしたらいいか、どうすれば好きな女性に興味を持ってもらえるのか、などはよく出る話題ではあるが、時間をかけてその方法を考えても当の女性は冷たいものである。そこまで考えて、しかし私は男性からこの手の話を聞くことは多くとも、女性から聞かされた経験はあまりないな、と思ったのである。そう考えると女性側からの視点で、今回の出来事がどう見えているのか非常に興味が湧いたのである。しかも男性に誘われて、それを振ろうと言うほどの美人である。後学のためにも知っておかねばならない。
やはりワンピースじゃないか、男性と二人で出かけるなら、と私は相手に提案してみた。好意のある男性の前でないと、あんな動きにくい服は着ないだろう、相手の男性を、期待させて空振りさせてやろう、と私は考えたのだ。いや、正確に言うと、目の前の女性が口に出しにくいであろう願望を代弁してみたのだ。そうね、普段よりは、女性らしい服装をしないとね、と彼女は言った。そして、靴はどうしようかしら、と続けるのだ。華奢なヒールがいいと思うよ、けれど歩きにくくないかしら、そうだけど、ヒールだと階段なんかで男性も手を差し出しやすいし、車の乗り降りも自然と男性がドアを開け、手を出し支えてくれるようになるよ、というやりとりをしたのである。
二人で京都に出かけ、紅葉を楽しみ、普段とは違う距離、雰囲気で彼女と接し、町家を改装した趣のあるお店で食事をしたぐらいのところでその男性は見事に振られるのである。しかも一見すると、早く好意を告げてほしい、と言っているかのような女性に、である。そして女性は言うのだ。「まさかそんな好意を持ってもらってるなんて、少しも気付かなかったわ。ごめんなさい。けれど私より、もっと良い人がいると思うのよ。私はあなたが思っているような人ではないわ。」そして、別れ際「友達として、あなたのことが大切なの、どうかこれまでとかわらず接してね。」これで茶番は完璧である。
相当の美人でないと、こんなことをして許されないだろう。私が女性なら一度くらい、こんなことを言ったりやったりしてみたい。
*次回へ続く
久しぶりに神戸元町のC.A.P芸術と計画会議で展示をさせて頂きます。会期やオープンの時間は下記の通りです。
会場:C.A.P.(特定非営利活動法人 芸術と計画会議)
〒650-0003 神戸市中央区山本通3-19-8神戸市立海外移住と文化の交流センター内
phone+fax 078-222-1003 / 10:00-19:00 (月曜休み)
会期:2018年9月9日〜10月7日 オープニングパーティー9日16:00〜参加無料
会館時間:10:00〜19:00(初日は12:00〜、最終日17:00まで)月曜休館、月曜祝日の場合は翌日火曜

コマーシャルな展示スペースではありませんが、その分親しみやすく楽しいスペースです。アートに興味はあるけど、いきなりコマーシャルギャラリーに行くのはちょっとなぁ、という方にお勧めです。
C.A.Pの近くにはびっくりするぐらい美味しい中華屋さんも多く、展示を見た後に中華を食べる!というのも良いコースだと思いますよ。天竺園と豊味園は特にお勧めです。お店の情報も記載しておきます。

水餃子が有名ですが、個人的には海鮮系が特に美味しいと思います。落ち着いた店内でゆっくり食べれるのもいい感じです。お店の詳細はこちら



元町ガード下、本格派なのに手頃な値段がうれしい中華屋です。お勧めは(辛いものとホルモンが大丈夫であれば)ハチノスの四川風炒め!お店の詳細はこちら

神戸は遠いけれど、中華も美味しいし、気合いの入った展示も見れます!9月はぜひ神戸C.A.Pへ!!
毎年この時期になると、NHKやBSで戦争の時のドキュメンタリーをやっています。戦地から生きて帰った人のインタビューとか、特攻の映像とかを見るとほんの70年前の出来事とは思えません。「兵隊を特攻させるくらいならもう降伏しよう」とはならなかったんですね。
戦争中は、少しでも国の政策に反対すると非国民と罵られたそうですが、それがどんな状況なのか、現代で暮らす私としては上手く想像する事すら出来ません。
戦争が始まる前、世間が不穏な空気に包まれ始めたその時に、誰かが「ちょっとおかしいんじゃない?」とか「それは違うと思う」と違和感を口にし、それを周りが真摯に受け止めていれば、その後の展開は少し変わったものになっていたかも知れません。
いつでも、誰でも気軽に「それは違う」と言える社会の柔軟性が民主主義の根幹であり、その上に芸術やアートと言ったものが乗っかっています。しかし日本の社会や会社、学校は年功序列もある上に同調圧力も強いので、「それは違う」というのも中々一苦労です。戦中から続く、日本の風習、慣習の悪い面が呪縛のように今も続いているのかも知れません。
画像は藤田嗣治の「アッツ島玉砕」という作品です。

戦意高揚の為の「勇猛果敢な戦地の兵隊」という幻想を描かず、目の前の生々しい現実を描いたため軍部から「これはどうなんよ?」と言われ、戦後は戦争画に加担したと社会から非難され、まわりに同調しなかった為についには日本を捨てる事になった画家です。その時の場の空気に沿ってしか発言できない人間ばかりで、日本に愛想が尽きたのかも知れません。
敗戦から70年、私はスプラトゥーンでしか銃を撃つ事はありません。70年で藤田の絵と比べ爆発的に彩度が上がりました。

いい年の大人がゲームで銃を撃っていると、お前は遊んでばっかりだとかもっと頑張って働けとか非難されがちですが、そうして過ごせる社会は、誰が何と言おうとも(兵隊が戦地で銃を撃っていた昔よりは)良い社会だと思います。藤田の作品との色彩のコントラストが凄まじいです。これから灰色の時代に逆行しないことを強く願います。
くま美術店さんで小品の販売をしていただく事となりました。
普段とは雰囲気の違う作品ですので、興味のある方はぜひご覧下さい。
作者の一押しは「坂道」です。