本当の私、を誰も知らない その2

先週の夜、「あざとくて何がわるいの?」を見ていた。この番組はおもしろい。もはや「あざとい」をめぐるコントだ。あと1週間くらい見逃し配信が見れるようなのでぜひ見て欲しい。

様々なパターンの「あざとい」が出てくる中で、特に興味を引かれたのは女優•松本まりかさんのインスタライブであった。

https://twitter.com/i/status/1286880623114637312

まずは配信を開始するもずっとカメラを見つめるだけで約10分間無言である。この10分が酔っているのか、惚けているのか微妙な表情と雰囲気なのだ。こちらは何か見てはいけないものを見ている気になる。その後、唐突にベランダに出て一言「満月見る?」と発する。それだけの動画なのだが、無言の時間の表情や仕草によって(架空の)プライベートな親密さは醸成され、それがピークに達した瞬間に一言だけ満月見る?と発するのである。オチまでの間の取り方、構成がすばらしい。さすが女優さんである。完全にこの番組の構成作家がト書きを作ってインスタライブやったやろ!と指摘があってもおかしくない。

一般的に「あざとかわいい」はキャラであり、「私」が社会的役割を分担した一つの自己である。この番組のようにちょっとしたコントをやってるうちはいい。しかしさらに精緻にあざとかわいいを作り込んでいけば、それにつられ本人の言動は制約され、いつしか枷となる。言動にあらかじめ「正解」が決まっているからだ。

併せて指摘しておきたいのだが、インスタライブにはルールのみがあり、原理がない。「なぜそれを行うのか」は欠落している。だからハイスコアを求め、いかにあざといを演じるかがゲームとして成立する。ちなみにみんなに見て欲しいから、というのは理由にならない。なぜ「見せなければならないのか」が欠けていると言っているのである。

今では多くの人がインスタライブをはじめ、各種SNSでコンテンツを発信する。そこでは「あざとかわいい私」をよく目にする。それを「みんな」に向けた承認欲求の過大な現れだと指摘する声も多い。ちょっとしたコントをやっているうちはそうだろう。しかし、「あざとかわいい」をほぼメインのペルソナにしようと作り込もうとすると事情が変わる。深層的欲求は意図の有無を別に、具体的行為にあらわれる。インスタライブを観ている人は全て「彼ら/彼女ら」つまり三人称である。「私」が大勢の観客に向けて発信している訳だが、そこには「あなた」が欠けている。いかにあざといかハイスコアを競うゲームにあって、恐らく本当の欲求はスコアとは別にある。それは「本当の君はこんなことはしない」と「あなた」に言ってもらうことである。「私だけが、本当のあなたを知っている」あざといを巡るゲームは、この一言を言ってもらうための迂遠な表現なのだと思っている。

 

本当の私、を誰も知らない その1

人はどのあたりまで自分から乖離した自分を、「私」として認める事ができるのだろうか。例えば、アイドルや俳優など、見た目や仕草が評価に重要な影響を与える仕事をしている人はありのままの自分をさらすことはできない。

だから周囲のイメージ通りの「私」を演じるのだろうけれど、確信を持ってこれは私だ、と本人が言える境界は、元の私からどれくらい離れた位置までなのだろう。仮に全身整形とかしているとかなり「私」の境界が揺らぎそうだと想像してみる。自分の好みからかけ離れた服を毎日着せられるというのも自己認識に影響を与えるだろう。もしかしたら身体そのものよりも服装や立ち振る舞いを強制される方が、自己は揺らぐかもしれない。

それに加えて、最近は各種SNSの発言に気をつけないとすぐに大騒ぎになってしまう。公の場で、有名人はほとんど台本のようなセリフしか発言することができないのではないだろうか。パブリックイメージを「演じている私」のセリフである。

そうなると悲鳴をあげるのは「本来の私」である。これがパブリックイメージとギャップがあればある程「本来の私」はより内面へと押し込まれる。パブリックイメージな私、が「本来の私」を抑圧しているのである。抑圧する私/される私と、私が複数存在する。

ところで日本語では「自分に甘い」や「自己嫌悪」といった言い方でも私が複数に分かれている。「私が複数存在する」というのは単なる言い回しの問題ではなく、言葉を使って我々が自己というものを理解する際の理解の仕方の、根幹に触れる部分だそうである。「パブリックイメージの私」は精緻な作りの仮面であって、人は役割の異なる仮面を複数所有しており、場面に合わせて「本来の私」が仮面を選ぶ。我々は「私が複数存在する」という形でしか自己というものを概念化できず、逆に言うとこれ以外の捉え方ができない。この構造こそが「私」である。多くの言語で「私が複数存在する」という概念化の構造は見られるとジョージ•レイコフとマーク•ジョンソンの「肉中の哲学」(計見一雄訳、哲学書房、2004年)が指摘している。もう少し難しい言い方をすれば「内的生活に関するメタファーシステムの一般構造は、一つの『主体』と一つまたはそれ以上の『自己』の間の根本的な区別の上に基礎を置いている」(統合失調症あるいは精神分裂病 計見一雄、講談社、2004年)ということになる。

自分を精緻に演じている人ほど親しい誰かには「本当の自分」を知って欲しくなるだろう。それは外からは見えない容れ物に入って蓋がされてあり、その蓋をあけ、中身を覗いたならば、それを見たならばもう他人の関係ではいられなくなり、互いの中身を覗き合う関係、というのは、その人がヘテロであればそれは夫婦というもののことだろうとは思う。

 

 

 

今日は雨が降りそう

和菓子屋さんで葛饅頭を買って食べた。透明の外側で、中にあんこが入っている。さらにその外側が笹の葉で包まれた和菓子は、手に取ると笹のとげとげするような、つんつんするような独特な手触りと清涼な香りが、饅頭のつるっとしたと感触と餡子の甘い匂いと上手く対になっている。

少し前まで、大手スーパーで売られているこの手のお菓子は笹の代わりにそれを模したビニールが巻かれていた。最近はまた本物の葉が巻かれているものも売られているらしい。

誰がその笹の葉を巻くかというのはこの場合重要な問題である。大手スーパーが巻く場合は美味しくなるから以上に「そのほうが売れるから」であって、味も情緒も度外視してビニールを巻いていた時代からのマーケティングのバージョンアップの結果である。一方、和菓子屋さんが巻くのは美味しくなるから以上にそもそも「そういうもの」だからである。前述した笹と饅頭の質感の対比が「味わい」であって、それが無いと「葛饅頭」として成立しない、というのが和菓子屋さんの主張である。少なくともそう思いたい。両者見た目は一緒である。

最近、「現代美術」と「アート」の違いについて考える事が多い。そんなこと今更気にせんでええやろと言われることがほとんどだが、もはや使われることの無くなった「現代美術」と呼ばれたものは和菓子屋さんが巻く「笹の葉」のようであったな、と食べながら懐古してみる。それには非日常な出で立ちでありながらきちんと奥行きも手触りも内面もあり、それを以て日常を包むことで「日常」のパースペクティブも刷新された。

複雑な内面があるから薄暗い精神の裂け目も表現することができた。例えば塩田千春の90年代の浴槽で土を浴びるパフォーマンス、エナメル塗料を頭から浴びるパフォーマンスをおさめた映像作品は、近代というダブルバインドによって身体と精神に生じる病理へ対処する為のネガティブな戦略と捉えることもできるだろう。アートがよく言う「遊び心」や「親しみやすさ」とは無縁の作品である。

時間は不可逆なので、現代美術に回帰したいわけではないのだが、それでも「アート」のフラットさやスマートさ、無理矢理おしゃれに尖らせた感じなどは見ていて中々ぞっとしない。

わかってもらえるだろうか。

大阪の京橋駅のごちゃごちゃしたところでおっさんが「今日は雨が降りそう、今日は雨が降りそう、雨が降りそうやで〜!!」とひたすら連呼していた。それをちょっとあれだからと無視するのではなくそれは近代のダブルバインドに対処する精神のネガティブな戦略の発露であると捉えるのが現代美術のスタンスである。それは確かに古い。90年代末の感覚だ。若い人にはご理解頂けないかもしれない。現在、ダブルバインドは解消された訳ではなくより巧妙に日常の中に隠された。だから昔のような直接的な表現ではそれに対処できないかもしれないが、ではそれをおしゃれに言ってみよう。サニーデイ•サービスで「雨が降りそう」である。

とても良い曲だと思うし、批判がしたいわけでもない。私はサニーデイ・サービスのファンである。同じことを言っているのだが、しかしアートのようにおしゃれである、と言いたいだけだ。

跡形なのか、その瓦礫は まとめ 編

9月に開催予定だった、ひろしまトリエンナーレが中止となった。公式にはコロナの感染防止を理由としている。この展覧会は実行委員会とは別に、展示内容を選定する「アート委員会」を県が設置する方針を固めており、これに対して作家、芸術関係者から強い批判が上がっていた。実態は検閲しようとしたところ反対され、空中分解したということらしい。

県としては「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」のような騒動を回避したかったのだろう。その気持ちはとても良く分かる。ひろしまトリエンナーレは観光誘致の側面も強かったみたいだし、主催者の責任として、炎上し批判され、収拾のつかなくなる事態は避けたいという事だろう。

そうなると先の「表現の不自由展」の責任は重たい。「表現の不自由展」は主催者側が十分な説明責任を果たしていない、と広島県の職員の方は感じていることが「アート委員会」を設置した事からも推察される。

正直私もそう思う。公共の場で税金を使って展示をした以上、市民から作品の制作意図、展覧会の企画意図について説明を求められれば当然説明をしなければならない。例えば、「平和の少女像」や昭和天皇をモチーフにした作品など、最初から炎上しそうな作品が多々あったし、それらの作品について「なぜそれらの作品を展示するのか」という質問は来場者から出ることは当然予想出来ただろう。しかし、主催者側はその点の準備が、残念ながら不十分だったように思う。

主催者側は「説明する機会すら奪われたのだ」と言うかもしれない。しかし、そこは先回りして何らかの対策が必要だったのでは無いか。暴力や暴言で展覧会を中止させようとする人間まで出てくる中で、先回りして対策を打つ事は容易ではない。だが説明出来なければ展覧会は単なるスキャンダリズム、炎上狙いと言われても仕方が無い状況で、その対策こそが展覧会の生命線である。死守しなければならなかった。

表現とはなにか。世の中には、どうしても表現されなければならない事、発信されなければならない事があり、それらは一見不可解であったり、不愉快な見た目をしていたり、感情を逆撫でするような内容を含んでいることが多分にある。しかし、それは今私が言わなければ、あなたがそれを受け取ってくれなければ全て無かった事になる問題提起である。「表現」とは本来私とあなたの間にあるその構造のことであり、それ故どれだけ不愉快で気持ち悪い見た目をしていても眼を逸らす事は許されない。その中には問題を解く鍵や新たな問題意識が内包されている。学術体系の全ては、社会に今ある問題を解決するために存在し、美術・アートとて例外ではない。

思わず眼を逸らしたくなる不愉快な表現も、「どうしてもあなたに受け取ってもらいたい」という動機があるからこそ、「見たくない」と観賞を拒否する人には丁寧に説明しようという姿勢が必然的に生まれる。ただ鑑賞者を挑発する作品、展覧会にはならないはずである。「表現の不自由展」の実体はどうであったのか、その展覧会を見る事が出来なかった私には分からない。しかし、主催者側が美術としての論理と価値をはっきり説明出来ていない以上、あの展覧会での「表現の自由」はレトリックなのではないか。我々表現を発信する側が、「表現の自由」を軽く扱ってしまったのではないか。

私は制作者側なので、何とか「あいちトリエンナーレ」「表現の不自由展」側を擁護したい。私は「表現の自由」をとても大切に思っている。しかし「表現の自由」に残ったのは今にも崩れそうな外殻だけである。もう一度、表現する者全員で作り直さなければならない。

 

 

跡形なのか、その瓦礫は 4

現在、コロナウィルスでまさかの緊急事態宣言の真っ只中である。若干落ち着いてきたとはいえ、世界はパンデミックである。映画とかマンガの中だけの出来事だと思っていた。連日海外の感染状況が報道されており、外国では都市封鎖されたり外出禁止令が出て、それを緩める、緩めないと各地で揉めているようだ。不用意に外に出ると罰金や拘束の対象である。企業も飲食店も営業を制限されている。

日本では海外よりも「緊急事態宣言」の力が弱いので割と自由に日常品の買い物に行けたり、気晴らしの散歩に行けたりはする。小池都知事から「ロックダウン」の発言があった時はめちゃくちゃびっくりしたし、それこそ映画ではないか。とは言え強制力が弱いのは市民の立場からすると生活する上で気分的には楽である。それを良い方向に捉えれば、めちゃくちゃ良い方向に捉えれば政府と市民の間に信頼関係があるということになる。ただ、強制力がないが故に、都市部から地方にコロナを避けて逃げた人が感染を拡げるリスクを高めただとか、海岸などでは他県からサーファーや釣り人が集まってるだとか、暇な人がパチンコ屋に行列を作ったとか、感染防止上良くない報道が連日されている。本来なら禁止したい行動が法的強制力を以って禁止できずにいるのだ。

こういう事態になると必ず出てくるのが多少基本的人権を制限しても政府の権限を強めた政府の方が事態を上手くコントロールできる、という主張である。現に一党独裁の中国政府はうまく事態を収拾させており、民主主義的な欧米の政府は甚大な被害を出している。中国は強硬な都市閉鎖や、わずか数日での病院建設と医療資源の集中という、強い権限を持っている政府だからこそ可能な政策を実行して事態を収拾してみせた。

日本ではそのように報道されているが、対照的に国内では緊急事態宣言以降も上手く感染者が減らず、それは感染リスクの高い行動に対して罰則を課すことができない強制力の無い「自粛要請」しか出せない事が原因ではないかと言われることが多い。

確かにそうかもしれない。日本がそれこそ昭和戦中のような強権国家であれば、都市を封鎖し県境を超えることを禁止し、パチンコ屋に並んだ人々を逮捕できるだろう。病床が足りなければ土地を接収し、一気に病院を立て病床を確保すれば良い。それも一つの解決方法である。

一度シュミレーションしてみよう。私は大阪在住なので「大阪ロックダウン」である。まず県境を封鎖するには警察だけでは人手が足りない。警察は府内のパチンコ屋や南港の釣り人、季節的にいちご狩りをしている人々を取締る為にパトロールに行くからである。県境を封鎖するのは自衛隊にやってもらおう。監視には大人数が必要だ。彼らの一部隊が大阪と京都あたりの境目あたりを監視する。多分枚方とかで1号線か第二京阪を見張る。大阪から逃げようとする住民がいれば発見し、取り押さえるのである。また京都から食糧を売りに行こうとする密売人も拘束しようとして取っ組み合いになるかもしれない。なんとか捕まえて尋問もするだろう。それを何回か繰り返しているうちに彼らは感染するのである。そもそも、監視する側は一箇所に何人も集まって同じものを食べて日々の任務をこなす。一人感染すれば監視どころではなくなる。

警察の方のパトロールだって大変である。車に二人乗りだって感染リスクはあるのに、パチンコに並んだり、釣りをしたり、いちご狩りをしている人に罰金刑を科すためには、少なくともそこに集まっている人数に近い数の警官が現地に赴かねばならない。警官2人とかだと簡単に逃げられてしまう。パチンコ店内と移動中の警察車両の密集度はどちらが高いか、私には判断がつかない。

病院が足りない=感染者が多く出た、地域に数日で病棟を建てようと集めたたくさんの大工さんや職人さんがその病棟に入院することにならないのだろうか。

ちょっと考えただけでも上手くいかないのではないかと思うが、仮にそうだとしてもシュミレーション下の強権な日本政府ではそんな報道はされない。強権国家には政府の立場を危うくするような「言論の自由」も「報道の自由」もないからである。そうこうしている間に国内に感染は拡がり死亡者も出るが、同時に集団免疫も獲得するので騒動はおさまる。あとは報道をコントロールし、日本政府が上手く事態を収拾した印象を持たせれば良い。幸い、致死率は高く無かった。

いや、このようなシュミレーションは極端だ、という反論もあるだろう。しかしよほど上手く規則を設定したり、罰則を設けても事態はさして変わらないのではないか。逃げようとする人を拘束したり、押し問答したりしている間に感染者は出る。事実、都市封鎖したり外出禁止に罰則を設けた諸外国でも感染は拡がったではないか。政府の権限を強くすることが、本当に解決に繋がるのだろうか。

今でも日本では多くの人々が「自粛要請」に従い、外出は減っている。あとは政府が企業や商店の「休業補償」をすればパチンコ屋や飲食店に行く人がさらに減り解決に向かうのではないだろうか。強権的に都市封鎖するよりよほど現実的である。

私は政府の権限を強くすべきだ、と主張する意見を責めたいわけではない。ただ、権力を強化しても解決に向かわないだろうし、それ以外での解決方法もあるだろうと思うのだ。

それと併せて、日本を含めた「強権的な独裁国家」が前世紀に何をきっかけに登場し、何をしたかは知っておくべきだと思う。権力は必ず腐敗するし、小さなきっかけで暴走を始めた権力はなぜか止めようがない。「キリングフィールド」はあれだけ残酷なシーンがあっても、3割ほどしか現実を映像化できていないそうである。私はカンボジア出身のバンディ•ラッタナの「独白」という映像作品を観て以降、マンゴーを好んでは食べなくなった。ジョージ•オーウェルの「動物農場」や「1984」は吐き気がするような小説であるが、しかし自由を奪われた社会というのはかくの如きだろう。

人々の権利を強権的な政府が抑制する。政府の権限強化を主張する人達は、強権的な政府を何で縛ればよいと考えているのだろうか。法律では縛れない。法律も強権的な政府が作り、執行も強権的な政府がするようになる。自由は制限される。

ならばそれとは逆に、未知の病気の兆しが現れた時にはその情報を広く発信し、専門家の議論を促す「言論の自由」が担保された民主主義的な社会を維持し、パンデミック自体を未然に防ぐことが、次善の現実的な対処である。

 

跡形なのか、その瓦礫は 3

 

「ひろしまトリエンナーレ2020」で事前検討委員会を設置する方針を県が示した。昨年の「あいちトリエンナーレ」での「表現の不自由展」のような騒動を回避するのが目的だろう。あいちトリエンナーレの補助金は減額支給となるようだ。私は「表現の不自由展」が様々なメディアで取り上げられ、批判の対象になっていた際、テレビ朝日のある番組で女性アナウンサーが「こういう展覧会がしたいのなら、税金を使ってではなく自分達のお金ですれば良いんですよ」と憮然とした表情で発言したことを覚えている。彼女は自身のアナウンサーとしての報道の自由、言論の自由が何によって担保されているのか全く理解していないようだった。彼女の発言が正しいのなら、各テレビ局はスポンサーの意に反する報道は全くできなくなり、もはや価値中立な報道など不可能となる。もっとも、彼女が「報道の自由」というものは理想論の中にしかなく、現実はスポンサーの意に添った報道しかできない、と考えているのならそれは「正しい」発言である。

私も日本の報道番組、新聞をはじめとする各メディアが、価値中立的な報道をしている等とは考えた事もない。それどころか日本にジャーナリズムは存在しないとさえ考えている。戦後、長く平和が続いた日本では、報道の自由どころかそれらの土台となる「民主主義」について考える機会さえもどんどん失われていている。

日本は先進国であるが、決して報道の自由度が高い国ではないし、そもそも多くの国民は国際情勢やそれにまつわる政治に対しあまり興味を示さない。

例えば去年、香港で「逃亡犯条例」改定案を巡るデモが行われ、それは今も続いているが、2020年に入り日本では経過がほとんど報道される事はなくなった。2019年当時も日本人のほとんどは驚く程このデモに対し無関心であった。当時香港の「逃亡犯条例」改定案を巡るデモは苛烈を極め、2019年11月8日、初めてデモの参加の最中に犠牲者が出たことが公式に確認されたが、その際もテレビや新聞ではまるで交通事故でも報道するような、随分あっさりした報道だった。犠牲者は香港科技大学の22歳の男子学生だった。

11月8日以降の香港デモの混迷と、それに対しての日本人の無関心さについては、ジャーナリストの福島香織氏が書かれた「日本人が香港デモに無関心のままではいけない理由」に分かりやすくまとめられているので、良ければご一読頂きたい。

福島氏の記事でも言及されているが、これら香港の一連の出来事は、もう少し地域と時間を巨視的に設定してみれば、第二次世界大戦後から続く「開かれた自由主義社会」と「管理された全体主義社会」の対立である。しかし、各メディアはこの事に対しても踏み込んだ解説や報道はほとんどしなかった。

2019年11月末、林鄭月娥行政長官が「香港区議会議員選挙」を行う事を宣言する。私はたまたま車の中でラジオを聴いていたのだが、その番組内で香港デモが話題に上がり、担当のラジオパーソナリティが「条例撤廃の要求は通ったのだから、今デモを辞めないと辞め時を失う。最初の頃と違って今は不満を持った学生が暴れているだけのように思う。」といった旨の発言をした。日本のメディアが香港のデモについて報道する際、「生活に心配のない学生が暴れて、市民の多くが迷惑をこうむっている」といった認識で語られることがとても多かった。私はそのラジオの発言と前後して、他のメディアでも似たような発言を見聞きし、都度愕然とした。

そこには自由と民主主義を論点に語ろうという意思は皆無であった。

香港がイギリスから中国に返還されたのは1997年であるが、その後50年間は一国二制度を採用し、外交と国防を除き高度な自治が約束されていた。それが「逃亡犯条例」改定案によって脅かされそうになっている、と市民が危機感を持ったところからデモはスタートしている。しかし、2014年の雨傘運動でも、中国による言論封殺への危機感は叫ばれていた。

もっとも、それらの危機感は香港だけではない。雨傘運動の少し前、ほとんど日本で報道された記憶はないが、台湾でも中国に対してのデモが行われていた。当時(今も)台湾の産業の空洞化は、一部の面で日本以上に進んでおり、大企業の工場は中国に移転していた。九割以上と言われている台湾の中小企業は、中国資本の進出、浸透によって壊滅的な打撃を受けていた。その中でこのまま中国に飲み込まれてしまうのではないか、という漠然とした不安が顕在化し、立法院(日本の国会議事堂)がデモ隊に占拠されていた。ひまわり学生運動である。日本のごく僅かな報道では単に「台湾立法院の占拠」と報じられることが多かったようだが、ネット上ではニコ生で院内の様子がアップされていた。

雨傘運動のトリガーは、香港で導入予定であった香港特別行政区行政長官選挙の1人1票の「普通選挙」が、のちに候補者は指名委員会の過半数の支持が必要であり、また候補は2-3人に限定するという中国の政治的意思が反映されやすい内容に変更された事であった。ひまわり学生運動では台中間のサービス分野の市場開放を目指す「サービス貿易協定」がトリガーとなった。前者は香港への政治的な、後者は台湾への経済的な影響力を中国は強めようとしているのではないか、そういった漠然とした不安が顕在化したと言える。

今や超大国と呼ばれる中国は資本と政治を両軸に、他国、他地域に強い影響力を持つようになった。恐らく、今の日本政府は中国のような国民に対して強い政府を目指しているのだろう。そのためにいくつかの法律も変更された。国民や企業を強くコントロール出来れば、市場も幾分操作し易くなる。そしてその経済力をベースに他国に対しても優位を築こうというのだ。要は中国の真似をし、経済大国に返り咲きたいのである。中国の経済政策と国民統治は非常に上手くいっている、というのが日本政府の評価と本音だろう。

私たちは、韓国などでは成立した「経済の繁栄が民主化を促す」というモデルが、破綻してしまった時代に生きていると認識を改めないといけないのかもしれない。

今、我々は「民主主義」とは何か、「言論の自由」とは何か、と問われた際に、自らの血の通った言葉で説明出来るだろうか。

我々は言語によって自らと世界を分節している。自らの言語の限界が、また自らの世界の境界なのである。言い換えれば、「名付けられること」によって、初めてそれは意味を確定する。名付けられる前の、「名前を持たないもの」は実存しない。

「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることができない。(……)世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは世界の境界なのです。」ルートヴィヒ•ウィトゲンシュタイン『論理哲学論』山元一郎訳、「中央公論 世界の名著58」1971年,319-320頁

言葉を知るまで知らないものがある。「花は美しい」と言うけれど「花」も「美しい」も未知の言葉なら、美しさはおろか花さえ見る事はできない。

先述の若いアナウンサーもラジオパーソナリティーも、なぜ自身がメディアで話せるのか、その根本を保証するものに対して考えたことも無い様だった。もはや言論や思想の自由について語る事は、日本では本質を伴わず形骸化している。我々は自由を語る時、日常の範囲にある語彙で語ろうとするが、それでは語彙が足りず意見を交わす事も、議論する事も出来ないのだ。「語られるもの」は、その複雑さに見合う「語るべき言葉」を要請し、それが承認された時のみ概念となる。

今、「開かれた自由主義社会」と「管理された全体主義社会」の対立の結果が、我々の未来を大きく左右しようとしている。我々は自由について語る言葉も思考する言葉も失っているが、その自覚を持つものは僅かである。だからこそ我々の語る「自由」は貧相で、目の前の自由が少しずつ削り取られているにもかかわらず、自身は自由である、と無謬に信じられるのだ。

BBC写真で見る「香港デモ、怒りと絶望に満ちた6ヶ月

跡形なのか、その瓦礫は 2

表現の自由が危ぶまれる機会が増えている。ここ数年の藝大、美大の卒制展でも、政治的な問題や、ジェンダー、ナショナリズムをテーマとして取り扱う作品は展示拒否を言い渡されることがあると聞く。

その昔、共産圏の国々や、独裁国家では表現の自由が規制されていた。ソビエトの社会主義リアリズムは余りに有名だし、ドイツの退廃芸術展は未だに汚点であろう。そもそも独裁国家で表現の自由を認めていては政権批判され暴動に繋がりかねない。許されるのは政権を賞賛するプロパガンダのみである。そのような時代、社会体制であるならば、表現が規制されることは、あくまで理由としては理解出来る。

民主主義的な、「開かれた自由主義社会」では、表現の自由は社会を運営していく上でプライオリティは高い。表現や言論の自由が担保されている社会では、銘々が様々意見を出し合い、その中でおおよそ妥当性が低いとされた意見が自然淘汰され、妥当性の高い意見が残る。これは単にその時同意者が多い意見が残っていくという事ではない。短期的には最適解のように見える意見でも、中期的、長期的な視点で捉え直した時には誤りであった、という事も多い。長い時間が過ぎる中で、ようやく有用性が認められたり、正当性が認められる意見もある。一番分かり易い例は「大日本帝国」ではないだろうか。当時は正当とされた国家も、今では軍国主義を肯定する人はいないだろう。

第二次世界大戦の終焉で軍国主義は一掃され、ソビエトの崩壊で社会主義の実験は失敗したかに思われた。しかし、今や瀕死なのは民主主義的な、「開かれた自由主義社会」の方である。

アメリカではトランプがおよそ民主主義とは思えないような独裁的な手法で政治を動かし、国際的な混乱を引き起こしているし、イギリスでは記者時代からECの信用を傷つけるために虚偽の事実や誇張を交えていたと批判されたり、オバマ元大統領への発言が人種差別的だと物議を醸したボリス•ジョンソンが現首相である。財界からの要望がよほど強いのか、今や一番の親中国は日本である。財界の男妾と呼ばれたのは佐藤栄作だったか、と記憶が曖昧になる。

結局のところ、「開かれた自由主義社会」と「管理された全体主義社会」とでは、どちらが上手く社会を運営して行く事ができるのだろうか。20世紀では圧倒的に自由主義が優位に立っていたように思われた。しかし、今世紀に入って中国の発展は目覚ましい。一部では中国のように権力を持った中央政府が政治、軍事、司法、経済を一元的に統率出来た方が、国はスムーズに発展していくのではないか、という意見まで出てくる。それを裏付けるように、もはや日本の経済力は中国には到底及ばない。

民主主義とは多くの人の異なる意見を話し合いによって一つにまとめる複雑で時間のかかる政治形態である。この過程を丁寧に行おうとすればするほど費用と時間がかかり、遅い政治は今や秒単位で変化する経済の変化に対応できないと批判を受ける。ではここで経済の変化のスピードを落とし、政治と経済の歩調を合わせよう、という意見は相手にされない。全体主義社会のほうは意思決定が速いので、経済の変化にも対応し易い。それどころかレバレッジの効く投資経済で意図的に小規模なバブルを形成し、経済を大きく膨らませる、あるいは膨らんでいるように見せる事すら可能だろう。実体経済においても、特にそれが発展途上国である場合、先進国の過去の発展過程をモデルケースに、条件に合わせて最短で正解を選択し易すい。

我々は近隣諸国の凄まじい速度の経済発展を前に、悠長に話し合いなどしていては置いて行かれるのではないか、追い抜かれるのではないかと焦燥感を抱くのである。

結果、民主主義国では行き詰まった現状を打破できる人物が、市長や首相として求められる。当然、民主主義的な手法で時間をかけて解決方法を探ろう、という人物はこれに該当しない。もっとカリスマ性があり、敏腕経営者のように収益を上げ、強引なほどの決断力と、反対をものともしない遂行能力をもった人物が、つまり反民主的で独裁者のような人間が、あるいはトランプやジョンソンのような人間が、国民の一時的なフラストレーションを払拭するためだけに選挙で選ばれるのである。ちなみに先進国において現状の諸問題を単独で解決できる人物など存在しない。それは何人もの人間が集まり、時間と知性を掛けて組織的に解決するしか無い問題なのである。

単独で、短期間で解決しようの無い問題に対し、1人で解決できる、すぐに良いほうに大きな変化をもたらす事ができる、と明言できるのは独裁者と詐欺師だけだ。

「管理された全体主義社会」の中で、優れた指導者が間違えずに国民を導いてくれれば我々はどれほど幸せだろう。しかし間違えない人間など存在しない。全体主義社会のリスクは、指導者が間違えた時に歯止めが効かない事である。また指導者の権力を強化する為に神格化が行われている場合は、経済がどれほど悲惨な状況となっても、国民に飢饉で死者が出ても、その誤りが認められる事も、指摘する事も許されない。絶対の指導者は間違わないという前提のもと、悲惨な現状が狂気で肯定されるのは歴史が教える通りである。

現在の世界情勢で、経済を短期間で大きく成長させることが出来るのは間違いなく全体主義社会だろう。しかしそれは前述の国家存続のリスクと引き換えである。

私見だが、国家の目的は「存在し続けること」だと考える。そしてそれを支えるものがあるとすれば冗長性、それも馬鹿馬鹿しいほどの冗長性(リダンダンシィ)に他ならないだろう。社会的な冗長性を担保するものは、言うまでもなく表現と言論の自由に基づく多様な意見である。「開かれた自由主義社会」に優位性があるとすれば、正反対の意見でもどちらが正解かすぐに判断せず一旦それらを留保する事が可能な事だろう。時間の淘汰圧に耐える事ができた意見を正解とすれば良い。言い換えれば、アートであれ他の文芸の分野であれ、様々な思考実験が可能ということである。これらは中、長期的には社会に文化的恩恵と成熟をもたらすだろうが、短期的で単線的な経済成長とは引き換えである。それでは時間ばかり掛かって目先の金にならないと言うのであれば、我々は失ってから嘆くしかない。表現の自由が欲しいと。

跡形なのか、その瓦礫は 1

今現在、アート・美術の展覧会で、どの程度までの表現が可能か。

去年のあいちトリエンナーレの政治的なモチーフ、テーマの作品への表現の自由を巡る問題は記憶に新しい。(個人的には、あのような炎上前提の展示のされ方は、展示する側が表現の自由を逆に軽んじていることにならないか、と思わなくもない。とはいえ内容を直接見ていないので確かな事は何一つ言えないが。)

過去の展示でも、鷹野隆大氏の写真は、被写体の男性2人の裸体を通して微妙な距離感、関係性、ジェンダーを問う、とは受け取られずに猥褻物と判じられた。そう言えば明治時代にも裸婦像の下半身に布を巻いて展示する、といった事があったように思う。

NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]での吉開菜央氏の映像作品《Grand Bouquet/いま いちばん美しいあなたたちへ》の一部では、指が折れるシーンが暴力的だとして黒塗りで展示された。

オーストリアで会田誠氏やChim↑Pomが参加した、日本の表現の自由の限界をテーマとした「Japan Unlimited」は内容が反日的であるという批判が集まり、日本大使館の公認が取り消されている。

主に政治的なものや生々しくジェンダーを問うもの、暴力的、反日的なものが規制の対象となるようである。誰もが不愉快なものや難解なものは見たくないので、それは当然かもしれない。

私はアートが楽しいもの、心地良いものであると考えている。これは私と同じように、他の多くの人がアートをエンターテイメントに近いものと捉えていることの裏返しだろうと思う。美術館やアートイベントはとても楽しいので、休日に遊びに行ったり、デートで訪れるのに最適だ。美術館≒ディズニーランドである。もし私がディズニーランドに遊びに行って、反日なマッチョに政治的でセクシャルな暴力でぶん殴られたらそれは「夢の国やろがい!もっと普通に楽しませてーな!」とクレームするのが当然と考えるだろう。「いや、目の前にあるこれらがどれだけ気持ち悪くても、不愉快でも、社会にとって無視出来ない問題を含んだ内容だから、痛がりながらでも、分かりにくくても何とか考え、殴りかかって来た相手と意思疎通を図るように」と言い返されたら即刻裁判を決意する。「何で入場料払てやで!!遊びに来てるこっちがそんな嫌な気持ちにさせられながらめんどくさいことせなあかんねん!こっちゃ客やど!」と叫ぶだろう。万が一、裁判できないなどと弁護士に言われたら気持ちが収まらない。運営会社に毎日クレームの電話を入れる。

私は知的コストを出来るだけ支払わずに、緩く楽しく快適な毎日を過ごしたい。きれいなものだけ見たいのだ。資本は遊んだり、恋愛したり出来る場を用意し、そこから不愉快なもの、難解な物を排除して欲しい。政治的な問題は政治家が、ジェンダーの問題は専門の研究者が解決案を私に示してほしい。日本国民である事に誇りを持ちたい。私はきちんと税金を支払っているので、日本政府はそれらの要望を満たした生活の場を保証してほしい。それが私の持つ最低限の「幸せ」の権利である。

こうして文章にして見ると、私の考える「幸せ」とは非常に幼稚である。私は、快適さや楽しさが少額のお金を支払って得られるのは、十分な社会インフラと健全な社会制度が有ってこそであって、その両者の質は、私自身の知的水準、市民としての成熟度によって担保されているという事実にきっと気付いていない。私がその事実に気付かない限り、それは今ある社会インフラと社会制度を弱い酸のようにじわじわと溶かし、劣化させるだろう。

上記の展覧会の、それぞれの規制の問題の本質は、本当に表現の自由を巡る問題だったのだろうか。表層的に見れば、確かにそうである。

かつて近代国家は美術館、博物館、劇場、図書館、コンサートホールなどの公共的文化施設に自らを表象した。時代が進み、巨大な近代国家は解体され、やがて資本と「私」が次なる主体として現れたが文化施設を自らの権力意思の代理表象として捉えていることは異口同音である。資本と私は毎日を楽しむこと、幸せな時間を送ることを金科玉条とする。資本がエンターティメントを準備し、私がそれを享受する。そこに難解で手間のかかる批評や議論は存在しないし、またそれらを私は必要としない。

しかし、あえて言う。国民が制度や慣習を含め自国を批評するのは、民主主義国家として当たり前の事である。

パンの森で買おう

もう随分前から高級食パンが人気らしい。私も勧められたり、頂いたりしていくつかの有名店の食パンを食べた。しっとりしていて柔らかく、おいしい。思わず日常の些事一切を忘れるような、食パンなのに甘くて、とても幸福な味である。未だによく行列が出来ているのを見かける。

おいしいのだが、中には甘すぎるくらい甘い物もあり、なんというか、それは小麦の甘さだけではないのである。これ何か入ってるよな?と思い、調べてみると生クリームを入れてる店もあるようだ。バターの香りも強く、味がとてもしっかりしている。「おいしい」というものが分かり易く演出されており、まあこれは人気が出るのもうなずける。おいしい。

ただ、好みの問題かも知れないけど、私はもう少し「水っぽい」というか、もっと味の薄いパンが好きである。そう言ってしまうと誤解されそうなのが、表現の難しいところだ。毎日食べても胸焼けしない、飽きのこないパンが好きなのだ。バターや生クリームよりも、小麦そのもののほのかな甘さを感じながら食べるパンが好きで、こってりした味やはっきりした香りより、食べた後に口や胃がすっきりしているほうがいい。毎日食べる食パンなら尚更である。

大阪のJR鶴橋駅から徒歩3分ほどのところに「パンの森」というパン屋さんがある。昔は御幸森にあったが何年か前に移転した。ローカルな地名ですまない。きちんとした素材を使い、きちんとした手順を踏んで作られた真っ当なパンがとても安くで売られていて私は好きなのだが、失礼ながら最近の高級食パンに押されているようにお見受けする。

なので少しここで宣伝したい。私としては、「パンの森」は美味しいのでもっと繁盛してほしいし、大阪の人はぜひ買いに行って欲しい。安くて美味しいパンを毎日食べる事ができるのは幸運なことだ。私としてはこの幸運を失いたくない。裏通りの小さな店だが、かわいい看板が出ているのですぐ分かるはずだ。

何と言っても食パン一斤280円である。安い。その上ジャムを塗っても美味しいし、トマトで作ったソースを塗っても美味しい。作り立てなので、ついでに鶴橋商店街の八百屋で野菜を買って帰ればサンドイッチにして耳まで食べれる。

例えば、福島パネ•ボルチーニの塩フォカッチャとか、西梅田ブルディガラエクスプレスのカレーパンのような名物的なパンは無い。あれはあれでとてもおいしいけれど、味が濃いので毎日は食べれない。

これはインスタでいいね!なかんじとも、分かり易い「おいしさ」とも違う、もちろんキャピタルな方向とも全く違う。

ただ日常の些事一切を見つめながら、苦いコーヒーと一緒に黙々と食べる、そんな血肉を作る毎日の食べ物の話なのである。

 

 

百年の孤独 後編

「しかし、銀四郎はたしかな足取りで明景の家に近づくと附近をうかがい、入口の垂れ蓆をまくった。家の内部には、肉の匂いがむせ返るようにみちていた。そこには斉田の妻と二人の男児の遺体がそのままの形で残されていたが、前日の検死の折とは異なって斉田の妻の遺体は原型を失っていた。海草のように頭髪のへばりついた頭部と片足の先端だけがころがっているだけで、その附近にわずかな骨と肉片が散らばっていた。区長は銀四郎の言う通り羆が女の体のみを食いあさっていることを知った。」(吉村昭著「羆嵐」より引用)

恐ろしいやつである。そんな恐ろしい羆を相手に、「銀四郎」は9mほどの距離まで、時には4mまで近づいて至近距離から射つという。当時の銃の性能の問題もあるのだろう。高速で発射される銃弾は、空気抵抗によって軌道が逸れる。現在のライフル銃のように空気抵抗の影響を極力受けぬよう精密加工するには、当時では不可能なのかもしれない。現に昨日の、40mほどの距離での一斉射撃では仕留める事が出来なかった。

本当に9mの距離まで気付かれず近づく事ができるのか。初弾を外せば次の弾をこめる前に羆の一撃に殺される。かといって、ちょっと銃が扱える程度の討伐隊の人数をこれ以上増やしても、羆に翻弄されるだけだ。「銀四郎」に賭けるしかない。この狂暴な羆を斃さない限り、三毛別村落と六線村の住人は、何年もの間身を削るようにして開拓したこの地を捨てなければならないのだ。

今、ラジコを聴きながらこれを書いているが、野田洋次郎氏が「愛にできることはまだあるかい」と歌っている。断言するが、ない。銃弾にのみ、やれる事がある。愛を口にするあなたの、その言葉の軽さよ。あなたがその言葉を口にするには、あと100年待たなければならない。

集団で動く討伐隊の男たちをうまく陽動に使い、羆の注意がそちらに向いている間に背後を取った「銀四郎」。しかし距離は30mほどで、まだ遠い。羆は山の傾斜をのぼってくる討伐隊の動きを見下ろしている。「銀四郎」は丘陵の淵に沿って一歩一歩、距離を詰めていく。彼と一緒に来た案内役の区長は、30mの距離で足が硬直し、雪の上に腰を落とし動けなくなっている。「銀四郎」は銃をかまえた。凍てつく空気をふるわす凄まじい発砲音。

「区長は、茶色い大きな岩石のようなものが二メートルほどはね上がるのをみた。そして重量感にあふれた音を立てて落下すると、周辺の樹木から雪塊が一斉に落ち、あたりは雪片で白く煙った。区長は眼前の光景が何を意味するのかわからなかったが、やった、やったと胸の中で譫言のように叫んでいた。」

しかし、心臓近くに打ち込んだ初弾だけでは倒せない。血のあふれる口から異様な吠え声を出しながら、立ち上がってくる。素早く第二弾を額に射ち込み、ようやく決着である。

これは100年ほど前の話で、それほど大昔の話ではない。およそ人生1個分の時間である。なのに価値観とか、行動原理が現代とは全く異なっていて、目眩を覚えるくらいである。なんか生まれた土地や世代で、価値観があわないというのもわかる気がする。それはよく言われるようなコミュニケーションの問題とは、どうやら根本的に違うようだ。「愛」と「銃弾」にできる事の違いである。

タイトル

2015

2015