「穢れ」や「不浄」といった観念は、程度に差こそあれ、多くの文化に存在する。特に日本では、古来から続く因習の中に未だ見られ、我々の感覚を無意識の深層から規定する。通常、「穢れ」は共同体に不吉な異常をもたらすものとして忌避される。
そんな「忌避される」ものの中で、最も端的で象徴的なもの、それは「死」であろう。
画家の笹山直規は「死体」をモチーフに絵画を描く。この日本で、特に忌み嫌われる「死」を作品のテーマに据えたのだ。彼の作品は凄惨で、ビジュアル的にショッキングであると言われる事が多いので(私見ではそうは思わないが)あえてここに作品画像は掲載しない。(興味のある方は作品画像を検索してみて頂きたい。いくつか論考も見られたので、個人的に的を射ていると思ったあたしか氏の文章へのリンクを貼っておく。)
もっとも、彼が作品の中で描く「死」は、大げさで、大味で、舞台装置的で、ハリウッド映画のようでもあるから、日本的な湿り気のある「死」とはまた質が異なる。しかし、「忌避」の感覚をインストールされている我々日本人からすると、直視出来ないものでもある。
そんな彼の作品が、2019年のVOCA展に出品されるのだという。推薦者は東京ステーションギャラリーの学芸員、成相肇氏。
私は笹山直規とは同期で、学生の頃からの付き合いであるが、そのテーマゆえ彼の作品は本人の居ないところで批評性のない誹謗中傷にさらされることも多かった。そんな時、私はそれらの中傷に近い意見を軽蔑しながら否定し、彼の作品の優れていると思われる点を挙げ、擁護した。私の意見はほとんど同意されることは無かったが、そうする事が、孤独に制作に打ち込む友人に、ささやかではあるが敬意を示す私なりの方法であった。
東京ステーションギャラリーの成相肇氏が、絵画に対しどんな意見や考えをお持ちか、私は不勉強にして存じ上げないが、経歴を拝見するとしっかりした実績をお持ちの美術評論家である。
そのような気鋭の美術評論家から評価されるという事は、笹山の作品にとって非常に重要だと思われる。その評価の事実は、今までの周辺の感情的な「誹謗中傷」を無効化するに十分だろう。前述の通り、彼の扱う「死」は、ストレートな表現の割りには「つくりもの」的な感覚がついてまわり、彼の作品に理解を示さない人達からそこを突かれると、私はいつも反論に苦慮していた。
しかし、もはや感覚的に「気持ち悪い」とか「見た目でムリ」とかの浅い言葉は、彼の評価に影響しない雑音と見なされる。思えば、今まで私は彼の展示を見に行くたび、うっかりその種の言葉を言ってしまわないようすごく気をつけ振る舞っていた。間違っても、「…全部出オチやんけ!!」と思っている事はおくびにも出さないようにしていた。
15年近い間、私は言えなかった事がある。おれの意見の影響など僅か、いや無いに等しいかもしれないが、少しでもお前の評価を下げたくなかったんよ。お前の作品が、ちゃんとした美術評論家の評価を得た今なら言える。お前が死体になる前に言えてよかった。
「おれはお前の絵が気持ち悪くて見た目で嫌いや。」
言ってしまった。。。